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『しらふで』生きる』を読んだ

   前回の書き込みに間違いがあった。都民ファーストの都議会議員候補者が二人と書いてしまったが、実際には一人だった。もう一人は、自由民主党の候補者だった。立憲民主党が候補を出さなかったのは、共産党とのバーターらしい。再生(前回の投稿では犀星と書いてしまった)への道の惨敗は、ある程度予想されていたものの、現実のものになると、ここまで負けるか、という水準であった。選挙のブレが大きくなっているようだ。  さて、今回の話題である。『しらふで生きる』という本を読んだ。(令和三年十二月、幻冬舎文庫)著者は町田康、『くっすん大黒』の町田である。この本を読んでみると、町田は大酒飲みだったらしい。副題が「大酒飲みの決断」となっている。二十五歳から、三十年間、毎日、飲んでいたということである。回数だけでなく、その量もかなりのものだったらしい。その町田が、突然、断酒したのである。その理由、その影響などを書いたエッセーである。ただし、エッセーといっても、読者を引き摺り回す独特の文体、町田節は健在である。というか、小説よりも、文章の寄り道、飛躍は、より激しいように思われる。  町田の議論の面白いのは、禁酒を正気の産物ではなく、狂気の側の判断だと述べていることである。理論的に考えても、酒を止めるという結論はでてこないようだというのである。もう一つは、酒を飲む人は、人生が楽しくあるべきだ、あるいは楽しくなりたいと思っている。だが、これは間違いだというのである。人生は、そもそも寂しい。この二つの論点は、かならずしも、論理的に結びついているわけではない。しかし、こんなことに論理的整合性を求めるのもお門違いであろう。そもそも、町田自身、なぜ自分が酒をやめたのか、よく自覚できていないのである。そして、自覚できていないということも自覚しているのである。  じつは、わたしもかなりの酒飲みだった。若い時から飲んでいたが、二十代の後半から七十歳まで、ほぼ毎日飲んでいた。ほぼ半世紀で、飲まなかった日は百日か二百日くらいだったろう。一年で五日以下ということになる。七十の時に一度体調を崩してから、飲酒量が徐々に減りだし、近年は飲まない日のほうが多くなった。そんなわたしが、町田の断酒の原因を推測すると、これがじつに面白くない、推測になる。町田が酒を飲まなくなったのは、身体の衰弱である。病気かもしれないし、体力の...

選挙の不思議

  わたしの住んでいる地域の衆議院議員選挙では、長い間、自由民主党と立憲民主党の同じ議員が勝ったり負けたりを繰り返している。多くの場合、負けた側も惜敗率で復活している。つまり、有権者の保守とリベラルがほぼ二分されているのである。ということは、かなりの数が、非共産リベラルに属しているはずである。この地域には、大きな企業があるわけではないので、特定企業の労働組合の組織票は存在していないから、組織票ではない。この傾向は、次回の衆議院選挙でも続くと見込まれる。  そこで、今回の都議会議員選挙である。今回の候補者は、自民一人、都民ファースト二人、犀星への道(いわゆる石丸新党)一人、共産党一人である。定員は3。激戦なのだろう。しかし、これを見てもわかるように、共産党以外は全部、保守である。これでは、参院や奈良、和歌山の選挙ではないかと思う状況である。立憲民主党、生活者ネット、リベラル系無所属の候補者は一人もいない。地元に半数近く存在するはずの非共産リベラルの票は、はじめから選択肢を失っている。市議会戦況ではなく、都議会選挙である。直後に参議院選挙が控えている。それなのに、この状況なのである。  おそらく、立候補しようとする人がいないのである。都議会議員の報酬は、一定の水準である。。それなのに、非共産リベラルの候補者がいない。これは、あきらかに異常な事態である。おそらくは、現在の選挙制度が、選挙民の傾向を反映できなくなっているのであろう。つまり、選挙制度の欠陥の露呈、いわゆる民主主義なるものの劣化を示している。これは、非共産リベラルの人々にとっての不利益という問題ではない。選挙制度が現実を反映していないということは、選挙制度そのものの危機と考えるべきである。  もっとも、考え直せば、現実に対応していないのは、自民と立憲が二分している衆議院の方かもしれない。こちらのほうが、時代遅れの制度の結果なのかもしれない。  いずれにしても、この猛暑である。投票率の低下が心配される。(このような状況では、低投票率が悪い、と決まったものでもないのだが。) 2025/06/22