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犬の病気

  我が家の愛犬はもう15歳になる。かなりの老犬である。今年の正月に、段差から飛び降りた際に左後肢を痛め、しばらく歩けなくなった。これを機にに急速に力を失い、目が見えなくなってきた。耳も聞こえなくなり、嗅覚も衰えてきた。犬の場合、嗅覚が衰えることは、視覚以上に大きな問題である。わずかに、触覚と味覚だけが健常である。この犬は、家の中でトイレができない。7歳まで、前の飼い主が育てていたのだが、若いときにしつけをし損なったらしい。従って、朝夕の散歩が必須である。しかし、この怪我の後、一日二回の散歩が待てなくなったらしい、家の中で粗相をするようになった。さいわい、おむつを嫌がらないので、おむつと散歩で用は足りていた。かなり弱っていたことはご理解いただけると思う。  こんな状態だったのだが、10日程前の朝、起きたら、大量に食べ物を吐いていた。それも昨夜の分だけではない量である。それから、すっかり元気をなくしてしまった。食べ物を受け付けないだけでなく、水も飲まない。寝たきりで動こうとしない。人間は見守るしかない。この状態で獣医へつれていっても、動けないようにして点滴をすることになるだろう。そこで、最後を迎えると、犬は見ず知らずの環境で、孤立した状況で最後を迎えることになる。それくらいなら、家で飼い主に看取られて死ぬ方がましではないか。さいわい、あまり苦しそうではないので、このまま死ぬならそれはそれで仕方がない。まったく動かないので、時々、死んだのではないかと不安になる。心臓の鼓動も、心なしか弱い。毛艶も悪くなってきた。飼い主はやや覚悟を決め、犬の遺影を探したり、ペットの火葬場の電話を調べたりした。いつ事切れても仕方のない状態だったのである。  ところが、4日目、ストローをスポイト代わりにして、水を与えると、少し飲むようになった。それから二日くらいすると、ペースト状の餌を少しなめるようになった。こうなると、時々、頭を持ち上げるようになった。そして、じょじょに食べる量が増えてきた。やがて、よろよろと立ち上がる動作もするようになった。三日前に、思い切って、ハーネスをして、外の道路に出してみた。足下はあぶないながらも、少しはあるくし、おしっこもする。弱々しくなっているが、2週間前の状態にかなり戻っている。昨日は、夕食の参鶏湯の肉をかなり食べたが、問題も起きなかった。どうやら、葬...

点心

  道元の『正法眼蔵』「心不可得」は、得山宣鑑のエピソードを扱ったものである。徳山は8世紀末から9世紀の人禅僧である。この「心不可得」の巻で、道元は徳山の行為を徹底的に批判している。  そのエピソードとは以下のようなものである。徳山は、はじめ金剛経を学ぶ僧であった。多くの金剛経の注釈を持って、龍潭という禅僧に会いに行くとちゅう、とある茶店に寄る。この茶店では一人のお婆さんが餅を売っていた。そこで徳山が餅を頼もうとすると、その婆さんが言った。金剛経には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるというが、あなたはどの心を点じようというのか?答えたたら、餅を売ってあげる。」これで徳山は答えに詰まってしまう。龍潭に出会う前の徳山の仏教理解の不十分さ、つまり学問的な知識を重視する修行の不十分さを指摘するはなしである。  この話しを成り立たせているのが、餅などの軽食や、お菓子が「点心」と呼ばれることである。さらに、「点」という碁が、注文するという意味の日常語であることである。現代でも、お店で注文するという時は、普通に「点dian3」と使う。婆さんは、そこから、心を注文するなら、どの心を注文するのか、という気の利いた質問を引き出しているのである。禅の問答が、口語で成り立っていることを示す例である。  ところで、この話し、普通は、は学問的な仏教理解の不十分さを示し、その後の徳山の禅による開悟へと連なっていく。ところが、道元はそれでは徳山を許さない。婆さんに問われて、答えを出せなかったことを厳しく批判する。さらには、徳山が答えられなかったのだから、ばあさんが代わって一言いうべきだったというのである。道元が求めているのは、真理を言語化する営為こそが、仏道に求められるということである。ここには、道元らしい公案に対する態度が示されている。さらに、道元は、自分で婆さんと徳山がどのような対話を続ければよかったのかを、提示してみせる。驚くべき老婆親切である。  道元は、公案が論理的に説明できると考えているわけではない。だが、真理は、言語化の営みの先に、あるいは言語化の営みの中に出現すると考えているのであろう。その視点から、徳山も不十分なら、ばあさんも不十分だと主張しているのである。この言語化へのこだわりが道元の基本的な姿勢である。それは、無門関のような非言語、没論理にすぐ...

イス坐禅

  坐禅のやり方を書いた文章で、もっとも広く参照されるのは、坐禅儀だろう。禅宗四部録に収録されている。これによれば、両足を組む結跏趺坐と片足だけを組む半跏趺坐が認められている。結跏趺坐は、まず右足を先に組み、その腿の上に左足を組む。半跏趺坐は、右足はあぐらのような位置のままで、その腿の上に左足をのせる。いずれも、左足が上になる。道元の坐禅儀、普勧坐禅儀、どちらもこの点には相違がない。  しかし、かなり以前からイスで坐禅をすることは行われてきた。趺坐ができない人、坐るのに適した場所がない場合など、イスを使って坐禅をすることは、便法として広く行われてきた。しかし、そこには、本来は趺坐して坐禅すべきであるという意識が存在したように思う。  先日、横田南嶺という人の書いた、『イズ坐禅』という本を読む機会があった。この人、臨済宗円覚寺派管長、円覚寺僧堂師家、花園大学総長である。つまり、臨済宗で坐禅について語るとしたら、最適の人物である。この本を読むと、イスで坐禅をすることが、やむを得ない場合の便法ではなく、正当なやり方であると説明されている。横田さんは、ご自分は子供の時から坐禅をしているので、結跏趺坐には慣れ親しんできたと書かれている。その人でさえ、結跏趺坐は、からだに負担になると感じているらしい。イス坐禅は安楽の法門にふさわしい形態だというのだろう。イス坐禅は、世俗の人が坐禅に親しみやすくするだけのものではないのである。  YouTubeを見ていたら、若手の禅僧たちが作成している坐禅についてのチャンネルに出会った。このグループは、皆、意識の高そうな若い修行僧といった感じの人の集まりである。ところが、その動画の中で、ほとんどの人が結跏趺坐をできない、ないししていないという発言があった。また、足を左右、組み替えることがよくあるといっている。坐禅儀には、そんなことは書いていない。どうも、実際の修行者は、右でも左でも、認められており、また、時間が経つと、そっと左右を入れ替えることも認められているようなのである。  曹洞宗の禅僧である藤田一照さんは、坐法の目的は、体幹で身体を支えることで、趺坐に拘る必要はないと説明している。ご本人は、右足を乗せる形の半跏趺坐で坐禅されているようである。  こういう説明は、坐禅儀の文言をそのままに受け入れるのではなく、その趣旨を汲んで、それを現...

安楽の法門

  『新・坐禅のすすめ』を読んだので、古い方の『坐禅のすすめ』も読んでみた。どちらも、冒頭に「坐禅儀」の解説が収められている。旧版の担当者は、山田無文である。昭和の禅宗の代表的な人物である。これを読むと、最近の禅に関する文章では、ちょっとお目にかからない内容にでくわした。  坐禅のをすると禅定が得られ、それにより、さらに定力が得られるとある。問題は、この定力の理解である。定力が発揮された事例として、ある禅僧が遠方の火事を察知して、そこに雨を降らせて鎮火させたという出来事が紹介されている。もう一つは、腫れものの出来た僧が、坐ったまま、麻酔なしに手術を受けたというケースが語られている。これを読むと、定力とは一種の超能力のように受け止められていることがわかる。昨今では、こうした超能力を坐禅に求めることはまずないのではないか。そういう要望は、ヨガや密教系新宗教の方へ向かうだろう。昭和では、こういう禅の理解が通用していたことに気づかされた。『新・坐禅のすすめ』には、もちろん、こういう要素はまったくない。  とろで、「坐禅儀」の解説を読んでいて、もう一つ気になったことがある。「坐禅儀」の中央あたりに「坐禅はいまし(すなわち)安楽の法門なり」という言葉が出てくる。この言葉、よく考えると、二つの理解が可能である。一つは、坐禅が修行として安楽なものである、という理解である。苦行ではないということである。この意味にとれば、苦痛に耐えて行うようなものではない、ということになる。もう一つは、坐禅をすると、心身が安楽になる、ないし、安楽を得ることができる、という理解である。この場合、安楽は、目的ないし結果ということになる。安楽には二つの理解が可能なのである。もちろん、その両方だという理解も出来るが、それにしても二つの場面があることには変わりがない。山田無文は、安楽の修行といっているから、まず、前者を考えていると解することができる。『新・坐禅のすすめ』の政道徳門という人は、慧定が安楽をもたらすと書いているから、後者であろう。つまりこの二つのケースを組合わせると、以下のような可能性がでてくる。すなわち、一、修行としての坐禅は安楽であるが、坐禅によって得られる境地は安楽とは別物である。二、修行は安楽ではないが、それによって得られる境地は安楽である。三、修行も安楽で、得られる境地も安楽である...

『新・坐禅のすすめ』を読んだ

  『坐禅のすすめ』は。臨済宗系の禅文化研究所が編纂した本で、1982 1982年に発行された。坐禅の入門書として、長く読まれてきた。2020年11月に、その新版として『新・坐禅のすすめ』が、出版された。雑誌「禅文化」に掲載された文章から、本書の趣旨にふさわしいものを編集、収録している。  この中で、わたしにとっともっとも興味深かったのが、横田南嶺と佐々木奘堂の対談「坐禅で腰を立てるとは」であった。坐禅をするときには、腰を立てるとは、よく言われることである。前屈みになってしまうことを戒めているのである。一部の坐禅指導者は、腰を立てるということを、骨盤を前傾させ、下腹部を突き出す姿勢だと理解し、それを強調した座り方を修行者に勧めることがよくある。今でも、坐禅の入門書の中には、こうした姿勢を推奨しているものもある。だが、こういう姿勢が不自然で、心身に歪みを与える原因となるという指摘もなされるようになった。佐々木奘堂はこうした主張する禅匠の代表的な人物である。彼の坐禅観は、藤田一照の『現代「只管打坐」講義』という本に収録された対談でものべられている。佐々木の禅へのアプローチの一つの特徴は、体術として作法への関心である。佐々木はさまざまな身体技法を学び、それをとおして坐禅という行為のあり方を追求している。そして、本書の対談では、五体投地礼という礼拝の動作とそこに含まれる精神を坐禅の理解と自薦に生かそうとしている。これは、佐々木の発言が、身体技法を中心としていたのに比して、精神的な意味をも含んで論じている点に大きな変化がある。身体技法を単なる技法ではなく、仏教の信仰の根本との関連で捉えている。  ただし、佐々木の議論で、やや不明瞭なままに置かれているのは、臨済系の禅で重視されてきた公案の解説である。旧版の『坐禅のすすめ』には、「公案と坐禅」という平田精耕の文章が納めれているが、新版には公案に関する文章はない。あさらにいえば、臨済禅で考える悟りとはなにか、悟るとはどういうことか、といった、根本的な問題に対する言及が少ないということである。佐々木ほどの探求者がこの問題に関心がないはずはない。対談ではこの問題が正面から取り上げられていないだけなのかもしれない。しかし、それでも、この問題への言及を保留して、禅について語ろうとしていることは、否定できない。行為としての禅を中心に...

前田寛治の展覧会

  ,前田寛治という画家の展覧会を見てきた。ラジオで紹介を聞いてことがあったが、まあ、行かないだろうと思っていた。ところが、妻が築地に食材を買いに行くついでに見に行こうというのである。妻がどうしてこの展覧会のことを知ったのか、それは知らない。しかし、そういう事情なら、見に行くことに異論はない。  前田寛治は、姓をマエタと濁らずに読むらしい。前田は1936年生まれ、1930年逝去、若死にである。死因は鼻腔内の腫瘍である。帝国美術院賞を受賞し、帝展審査員となった直後の死であった。将来を嘱望された画家だったのである。  とはいえ、わたしは前田寛治という画家の存在を知らなかった。作品を見たのも、今回の展覧会が初めてである。あるいは、目にしたことがあるのかもしれないが、記憶にはない。  展覧会は、最初の方に、風景画が展示されていた。これは、わたしの趣味にはまったく合わなかった。全体に暗くて、曖昧な色使いの絵がつづいているのである。これは、ちょっと外れだったのかと思いかけた。  ところが、後半になって、人物画が中心となると、印象がまったく違ってくるのである。1920年アメリカで強盗殺人事件があり、その犯人としてサッコとヴァンゼッティという二人が逮捕され、死刑になった。二人がアナキストだったこともあり、当初から冤罪ではないかという批判の声が起きた。  前田は、この事件を題材とする作品を、「二人の労働者」以下、いくつか残している。これらの作品は、風景画とはまるで違う。鮮やかで力強い色遣いである。前田が絵画を通して表現したいものが、明確に伝わってくる。前田はこれ以外にも、多くの人物画、肖像がを残しているが、いずれも風景画とはまったく異なる作風である。  今回の展示では、前田の作品だけではなく、前田と交流のあった人々の作品や紹介がなされている。前田に強い影響を与えた人物に、同郷の思想が福本和夫がいる。福本イズムで知られた、マルクス主義者である。さらに、シュルレアリルムの代表的な作者であった福沢一郎も友人であったらしい。サッコ・ヴァンゼッティ事件への関心、マルクス主義とシュールレアリズムの代表的な人物との交流とくれば、前田は長生きしたとしても、穏やかな人生を送ることはできなかったのではないか、と推測される。「二人の労働者」は、そういうこと想像させる力強さにあふれている。その後の日...

台湾国民党主席の熊本支援

  台湾の国民党は、そのトップを首席と呼ぶようだ。現在の首席は、総裁の鄭麗文さんという人である。彼女(女性である)が、熊本の震災に対して、100万新台湾ドル(訳450万円)の個人寄付を行ったらしい。中国政府は、これに対して、中国の災害への対応と比べて、アンバランス、つまり日本に過剰に手厚いと文句を付けているらしい。鄭麗文さんは、政治的には日本に批判的な態度を表明しているが、個人的にはけっこう日本好きだという推測もある。そうだとすれば、アジアの政治家に、めずらしくない態度の一つである。政治的には、立場上、反日を主張していても、本音は日本好きという人はけっこう多い。  これは、今回の寄付とは関係ないが、鄭麗文さんいえば、とにかく身長に目が行く。178cmあり、台湾の女性としては、かなり大柄である。あの習近平さんと並んでも、引けを取らない。  台湾の政治は、長い間、国民党が一党による独裁支配をおこなっていた。蒋介石が中心であった国民党は、中国で共産党との内戦に敗れ、第二次大戦後、大陸から台湾へ侵入してきた。国民党は台湾で、外来勢力として、在地の人々へを弾圧し、強圧的な支配をおこなった。当然、強烈な反共であり、大陸の中国政府と対立した。ところが、現在の国民党は、親中国である。国民党は、2000年代の前半、民進党に敗北して野党に転落した。この時、体制を立てた直すため、時代遅れの反中国の看板を下ろし、親中国に方向転換したのである。これは、国民党に変わって政権政党となった民進党の台湾独立的な傾向に対抗するためであった。国民党にとって、一つの中国は、国民党が大陸をも支配する政権であったはずなのだが、大陸の政府を認めて、中国は一つであるという、逆転をやってのけた。  これに対し、民進党は、政権政党としては、あかららまに台湾独立とはいわないが、そもそも台湾独立的な傾向をもっている。国民党は、これに対抗するために、中国大陸との交流を強くし、その経済的な利益によって民衆の支持を得ようとしたのである。あまりにもあからさまな利益重視ではないだろうか。  こうした国民党の将来は、あまり明るくないのではないかと思う。元来、国民党の中心は、中国から台湾に移住してきた人々である。さらに、その子供世代も、国民党の恩恵をこうむっており、国民党支持者の基盤であった。しかし、そのもう一代後の孫の世代に...