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広島の豚とAI検索

  今週も、『儒者の随筆』のネタである。  この本の中に、「豚の詩」という短い文章がある。そこで紹介されているのは、江戸時代の詩人菅茶山に広島の光景を詠んだ詩である。その中に、年老いた豚に、子供が二人乗りをしている、という言葉がある。茶山が広島を訪れた時に目にした光景を題材詩にしたものである。  筆者の富士川英郎が気にしたのは、広島の町に豚がいたということである。肉食をする週間がなかった日本では、豚は飼育されていなかった。それなのに広島の町では、子供が豚に乗って遊んでいたとある。そこにひっかっかたのである。富士川は、この疑問を抱いた数年後、橘南谿の『東西遊記』という本を読んで、広島の豚についての記述に出会っている。それに、広島には豚がたくさんいる、珍しいことである、と記されている。そして、長崎にも豚はいるが、食用にするので、あまり増えることはないと付言されている。  富士川は南谿のこの記述で、広島に豚がいることに納得して、この文章は終わっている。  なんとなく気が向いて、グーグルクロームの検索で調べてみた。すると、最初にAI検索による、以下のような説明が出てきた。江戸時代の広島には、珍しいことに豚がたくさんいた。その理由は、朝鮮からの施設を饗応するために持ち込んだ豚で、あまったものを放したところ、野良の豚となって繁殖して町中に広がったとのことであった。その後、あまり多いので豚狩りをして減らしたが、それでもまた繁殖した。  そういうことらしい。ただし、19世紀の初期に、なぜか豚は姿を消したらしい。周辺の山間部に逃げ込んだ豚は、イノシシと交配して、イノブタになったとも書かれている。橘南谿の本も紹介されている。  AI検索の解答は、予想以上に充実したものであった。儒者の随筆を読むのにも役に立つのである。 2026/11/08

人はその食する物である

  孫引きの記述のさらに引用である。  富士川英郎の『儒者の随筆』(小澤書店)を読んでいたら、以下のような話しにであった。この本には、江戸時代の儒者の随筆を読んで見つけた面白い逸話が紹介されている。したがって、この本で知った話題について書くと、孫引きをさらに引用することになってしまう。  中野香亭という儒者は、江戸末期に生まれ、明治になって活躍した儒者だと紹介されている。わたしなど、名前も聞いたことがない。江戸時代の儒者の最後の生き残りということになる。この人の随筆集が『香亭雅談』である。この中に、『秋雨物語』の著者、上田秋成のエピソードが紹介されている。  秋成はその妻に死なれた後、一人で暮らしていたが、自分で料理ができなかった。そこで、煎り米を水に浸して食べていたらしい。それを聞いた、国学者の本居春庭が秋成に煎り米を送ったらしい。秋成は、それをありがたがって食べていたという。春庭は、本居宣長の長男で盲目の学者であった。その春庭が、秋成の窮状を見て、煎り米を送ったのである。  香亭の書くところによると、煎り米を食べ続けていると、「偏僻」つまり怒りっぽくなるそうである。角の立つ人柄で名高かった秋成が、そういう人になってしまったのは、煎り米を食べ続けていたからであろう。つまり、春庭の善意の結果だというのである。  秋成と春庭という著名人が登場して、話題が煎り米というというところが、なかなか面白い。  それにしても、江戸の儒者は、みな教養に富んでいる。そして、それを漢文で書いたのである。江戸時代後期の教養の水準は、わたしなどの遠く及ぶところではない。いや、わたしでは、鼻から物差しにならないのである。 2026/11/01

雨漏りとAI検索

  我が家は、古い家である。近年、雨漏りがするようになった。といっても、最初に建った部分は、意外なことに、あまり問題がない。雨漏りがするのは、リフォームをした部分で発生している。それは、当然のことで、既存の部分に手を加えると、どうしても無理をする部分が生じるのである。リフォームを施工した建設業者に診てもらったが、どうもあまりはっきりしない。普通の建設業者は。雨漏りにそれほど強くないようである。  今秋は、大雨がたくさんあり、あちこちで水害が起きた。我が家の雨漏りも、今までにない状況になった。雨漏りは台所と玄関で起きている。そこで、適切な業者を探すことにした。以前なら、インターネットで検索すると、画面上にさまざまな業者の広告がずらっと並ぶ。それを次々に読んで、どの業者がよいか、洗濯することになる。ところが、昨今では、検索ページでを掛けると、AI検索が最初に出てくる。わたしの住んでいる地域で、評判のよい雨漏り工事の業者を探してみると、AI検索は条件にあった業者を選択し、その理由も説明してくれる。今回の場合、雨漏り工事についての資格をもった職人が在籍していること、専門的な機器を持っていることが、推薦の条件になっている。これは、業者の広告ではなく、さまざまのネット情報を分析した結果である。なんとなく、安心できる。  紹介されてた業者の一つに電話してみた。予期した以上に叮嚀な対応で、少し驚いた。やがて、業者から社員が現場を見にやってきた。この職員が、また、ひどく叮嚀なのである。契約手順の説明も詳しく、さらにその契約手順も叮嚀であった。工事の内容も、予想した最悪の事態と比較すると、かなり小規模な工事で終わりそうだった。余計な工事を提案されることもなかった。こうした工事では、詐欺まがいの業者もいることがよく知られている。それだけに、この業者は印象がよかった。(もちろん、詐欺まがいの業者は、とくに親切そうに振る舞う者ではあるのだが・・・)  何より、解決方法がしっかり提案さらたのはよかった。長年の懸念事案が解消されそうなのである。妻の精神状態もよくなって、何よりである。 AI検索のおかげである。 2026/10/25

知らない漢字

  台湾の物事について知りたいときは、Yahoo!奇摩という名称のサイトを使うのが普通だろう。この奇摩というのは、以前は独立したサイトだったが、yahoo!と合併して、この名称になったらしい。このサイトで、人物を調べると、taigai は緯基百科というサイトの記事が出てくる。漢字だとなじみがないが、これはウイxッキペデディアのことである。  先日、とある女性歌手の名前を検索したところ、その人の紹介の中に、おそらくアンケートへの回答とみられるものがいくつかならんでいた。好きな色、好きな食べ物といった定番の内容が多い。その中に、「最嚮往國家地區」というものがあり、回答は日本となっている。この「嚮往」とはどういう意味なのだろうか。とくに「嚮」という字は、初めて見たものであろう。この字、上の郷も下の向もどちらも、中国ではxiang4である。中国語の辞書を引いたら、「向」の項目に「(嚮)」と、付記されている。向の字はなんども引いたことのある字だから、当然目にはしていたはずだが、記憶になかったのである。漢和辞典を調べてみると、向という字の部首は口偏、したがって、嚮の字の部首も口偏なのである。この二つの字は意味が近いらしい。したがって、向で代用してもあまり違和感がないらしい。  「嚮往」と熟すると、「憧れの」というような意味になるらしい。一番あこがれの国が、日本だと言われると、日本人はややこそばゆい気持ちになる。しかし、台湾の人の中にはこういう趣旨のことを口にする人は、珍しくない。日本のいいところだけを見てくれるからである。  ところで、この文章をパソコンで書く過程で、「嚮」の字を検索してみた。その方法は口偏で「きょう」と読む字を探すのである。その結果を見て驚いた。見たことも聞いたこともない文字がずらずらっと列挙されているのである。知らない文字ことが、こんなにあるとは。まあ、漢字は15万字以上あるということだから、当然と言えば当然なのだが。 2026/10/18

ノーベル平和賞

  アメリカ大統領のトランプは、国際司法裁判所が嫌いである。報道によれば、将来、国際司法裁判所に訴追されることを心配しているのではないかという。したがって、さまざまな圧力を国際司法裁判所にかけている。一方、彼はノーベル平和賞がほしいのだという。だが、今年のノーベル平和賞に選ばれたのは、国際司法裁判所の元判事である。その後、国連人権高等弁務官を務めている。こちらもトランプの大嫌いな組織である。ノーベル平和賞の選考委員会は、トランプが敵視している組織の重要メンバーだった人に、その業績を評価して、授賞を決定したのである。これでは、トランプは将来もノーベル平和賞をもらえる可能性はないだろう。もっとも、それは、常識的に考えれば、当然のことなのである。  トランプは、ノーベル平和賞の委員会、それにノルウェー政府にも批判を行っているが、それでいて、ノーベル平和賞をほしいことには変わりがないらしい。矛盾しているのである。この人には、論理的な整合性などというものは、眼中にないらしい。これは、左翼小児病でもなければ中二病でするなく、単なる幼児性である。あるいは、幼児性にも及ばない、単なる愚かさというべきであろう。こういう人物が強大な権力を持っていることははなはだ危険である。  だが、残念なことにこういう事例は、トランプが初めてでもなければ、稀なことでもない。社会に大きな困難があるとき、人々はそれに合理的に立ち向かうのではなく、没理性的な指導者の言辞に従ってしまうのである。重い病気になると、あやしい民間療法に頼ってしまう病人と同じである。しかも、民間療法を洗濯する病人は、まだ少数派なのに対し、短慮な政治家を選ぶ国民ははるかに多い。  トランプは右翼的な政治家であるが、保守ではない。改革を叫ぶ右翼は大変に危険な存在である。それは、国や地域の区別なく、グローバルに妥当する事実である。  こんなことを書いてしまうと、アメリカへの入獄ピザが降りないらしい。だが、わたしはもうアメリカに行く可能性はないので、痛くもかゆくもないのである。もちらん、中国へもいけないのだが。 2026/10/11

犬の病気

  我が家の愛犬はもう15歳になる。かなりの老犬である。今年の正月に、段差から飛び降りた際に左後肢を痛め、しばらく歩けなくなった。これを機にに急速に力を失い、目が見えなくなってきた。耳も聞こえなくなり、嗅覚も衰えてきた。犬の場合、嗅覚が衰えることは、視覚以上に大きな問題である。わずかに、触覚と味覚だけが健常である。この犬は、家の中でトイレができない。7歳まで、前の飼い主が育てていたのだが、若いときにしつけをし損なったらしい。従って、朝夕の散歩が必須である。しかし、この怪我の後、一日二回の散歩が待てなくなったらしい、家の中で粗相をするようになった。さいわい、おむつを嫌がらないので、おむつと散歩で用は足りていた。かなり弱っていたことはご理解いただけると思う。  こんな状態だったのだが、10日程前の朝、起きたら、大量に食べ物を吐いていた。それも昨夜の分だけではない量である。それから、すっかり元気をなくしてしまった。食べ物を受け付けないだけでなく、水も飲まない。寝たきりで動こうとしない。人間は見守るしかない。この状態で獣医へつれていっても、動けないようにして点滴をすることになるだろう。そこで、最後を迎えると、犬は見ず知らずの環境で、孤立した状況で最後を迎えることになる。それくらいなら、家で飼い主に看取られて死ぬ方がましではないか。さいわい、あまり苦しそうではないので、このまま死ぬならそれはそれで仕方がない。まったく動かないので、時々、死んだのではないかと不安になる。心臓の鼓動も、心なしか弱い。毛艶も悪くなってきた。飼い主はやや覚悟を決め、犬の遺影を探したり、ペットの火葬場の電話を調べたりした。いつ事切れても仕方のない状態だったのである。  ところが、4日目、ストローをスポイト代わりにして、水を与えると、少し飲むようになった。それから二日くらいすると、ペースト状の餌を少しなめるようになった。こうなると、時々、頭を持ち上げるようになった。そして、じょじょに食べる量が増えてきた。やがて、よろよろと立ち上がる動作もするようになった。三日前に、思い切って、ハーネスをして、外の道路に出してみた。足下はあぶないながらも、少しはあるくし、おしっこもする。弱々しくなっているが、2週間前の状態にかなり戻っている。昨日は、夕食の参鶏湯の肉をかなり食べたが、問題も起きなかった。どうやら、葬...

点心

  道元の『正法眼蔵』「心不可得」は、得山宣鑑のエピソードを扱ったものである。徳山は8世紀末から9世紀の人禅僧である。この「心不可得」の巻で、道元は徳山の行為を徹底的に批判している。  そのエピソードとは以下のようなものである。徳山は、はじめ金剛経を学ぶ僧であった。多くの金剛経の注釈を持って、龍潭という禅僧に会いに行くとちゅう、とある茶店に寄る。この茶店では一人のお婆さんが餅を売っていた。そこで徳山が餅を頼もうとすると、その婆さんが言った。金剛経には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるというが、あなたはどの心を点じようというのか?答えたたら、餅を売ってあげる。」これで徳山は答えに詰まってしまう。龍潭に出会う前の徳山の仏教理解の不十分さ、つまり学問的な知識を重視する修行の不十分さを指摘するはなしである。  この話しを成り立たせているのが、餅などの軽食や、お菓子が「点心」と呼ばれることである。さらに、「点」という碁が、注文するという意味の日常語であることである。現代でも、お店で注文するという時は、普通に「点dian3」と使う。婆さんは、そこから、心を注文するなら、どの心を注文するのか、という気の利いた質問を引き出しているのである。禅の問答が、口語で成り立っていることを示す例である。  ところで、この話し、普通は、は学問的な仏教理解の不十分さを示し、その後の徳山の禅による開悟へと連なっていく。ところが、道元はそれでは徳山を許さない。婆さんに問われて、答えを出せなかったことを厳しく批判する。さらには、徳山が答えられなかったのだから、ばあさんが代わって一言いうべきだったというのである。道元が求めているのは、真理を言語化する営為こそが、仏道に求められるということである。ここには、道元らしい公案に対する態度が示されている。さらに、道元は、自分で婆さんと徳山がどのような対話を続ければよかったのかを、提示してみせる。驚くべき老婆親切である。  道元は、公案が論理的に説明できると考えているわけではない。だが、真理は、言語化の営みの先に、あるいは言語化の営みの中に出現すると考えているのであろう。その視点から、徳山も不十分なら、ばあさんも不十分だと主張しているのである。この言語化へのこだわりが道元の基本的な姿勢である。それは、無門関のような非言語、没論理にすぐ...