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『死者蘇生』を読んだ

 『死者蘇生』は、五条紀夫の小説である。(新潮文庫、2025)。  この小説の糖朝は、その設定にある。地方の小さな町が舞台であるが、この町には、死者を蘇生する秘術が存在する。その秘術は、死者を蘇生できるが、そのためには、他の人を代わりに死なさなければいけない。しかし、24時間以内にさらに他の人を生贄にすれば、死者を蘇生できるのである。結局は、だれかが死ぬことにはなるのだが。もう一つは、この秘術によって蘇生した人は、その間の記憶を失っているという設定である。  この設定を見ると、この小説は奇想小説だろうと思うかもしれない。  たしかに、この設定は奇想の一種だろう。しかし、この小説は、奇想小説とはいえないと思う。というのも、この小説で現実ばなれしているのは、この設定だけなのである。この小説の登場人物、人間関係は、きわめて常識的なのである。  友情、母子の愛情、隣人愛、地域愛など、世俗道徳が賞賛する要素があふれているのである。設定の非常識を補うためか、と思えるほど、常識的、良識的なのである。  奇想は、現実意外の世界を切り開くためのものではなく、一般社会の価値観を徹底的に補強する結果に終わる。  昔、現実を克服し、あり得る未来を切り開く心の働きをイマジネーション、想像力と呼んだ。それに対し、一般的な世界観、価値観の変革を求めない表現をファンタジー、幻想と呼んだ。この分類にしたがえば, この作品はファンタジーである。(現在のファンタジー小説の概念とは別です。念のため。)  設定は面白いのに、だんだん説教臭くなるのである。なんだが、少し、悲しいというか、情けないというか・・・。 2025/07/27

経験と表現

  吉田修一の原作を映画化した『国宝』の評判がひじょうに高い。『国宝』は歌舞伎を題材にした作品である。ところが、タレントの伊集院光がこれにちょっと異論を唱えている。伊集院も、この映画がよい映画であることは認めている。しかし、世間がこれを大傑作のように褒めそやすことに違和感を覚えているのである。そこまで、すごい映画なのか?、というわけである。  伊集院は、元落語家であり、勉強家でもある。歌舞伎についても、たくさん観劇しており、それなりの知識も持っている。それだけに、かえってこの映画に描かれた歌舞伎にひっかかるものを感じているのである。  自分がよく知っている物事が、映画で扱われているのを見ると、どこか奇妙に感じることがある。映画に限らず、小説でも同じことがいえる。  わたしは、若い頃、国語辞典の原稿の作成、校訂のアルバイトにながく携わってきた。編集者ではないが、辞書の編集部の雰囲気はよく知っている。三浦しをんの小説『舟を編む』は、国語辞典の出版の過程を描いた作品である。映画化もされた。わたしは、原作も読んだし、映画も見た。どちらも評判のよい作品である。わたしも、よくできているとは思った。しかし、辞書作成の全体のプロセスは、少し、違っている部分があると感じた。それは当然である。わたしの体験した辞書の出版過程には、その辞書に固有の事情があった。小説は、いろいろの辞書の作成過程を取材して、そこから再構成されたものである。違って当然なのである。しかし、その過程のバランスが少し座りが悪いように感じた。  実際の状況をよく知っている物事を、作品化されると、多少の違和感を覚えるものではないだろうか。警察関係者が犯罪小説を読めば、非現実的に感じることも多いだろう。  ただし、例外もある。わたしは大学の教師として長年生活してきた。  奥泉光の小説、いわゆるクワコーシリーズ、桑潟幸一准教授が主人公の推理小説に描かれる大学には、多少の誇張、戯画化が施されているが、いかにも大学らしい雰囲気が漂っている。奥泉光自身が大学の教員ということもあるが、それだけではこうはいかない。奥泉の表現の巧みさの結果であろう。  もう一つは、北村薫の「円紫と私」シリーズである。これに登場する大学の描写も違和感がない。わたしは、はじめて読んだ時には、北村という人は大学の教員なのだろうと思った程である。もっと...

『大観音の傾き』を読んだ

  『大観音の傾き』は、山野辺太郎という作家の小説である。2024年12月、中央公論新社の発行である。この作家のことは、『いつか深い穴に堕ちるまで』という作品が出版された時に、ちょっと気になっていたのだが、読まないままになっていた。今回、新しい本が紹介されていたので、読んでみた。  この小説の主人公は、修司という若者である。東北の県(宮城だと思う)のどこかの市役所の職員である。職場は海岸の出張所である。出張所のそばに、巨大な観音が立っている。バブルの時代に、地元の金持ちが建立したものである。バブルの崩壊とともに、関連施設はほぼ壊滅し、今は観音だけが海を見つめてたっているのである。  地元では、この観音が、東日本大地震の影響で、少し傾いているのではないかという風評が立っている。主人公の仕事は、その声に対応することである。観音は本当に傾いているのか。それを確認するには、観音に関する書類が必要である。しかし、バブルが崩壊したため、関連する企業も消滅しており、その図面が見つからないのである。主人公は、わずかな手がかりを求め、関係者の元を訪ねる。その結果、こちらもバブルが崩壊して誰も住んでいない開発地に一人で住む老人を訪れることになる。この見捨てられた開発地が、一種の桃源郷のように描かれている。小説の終盤では、主人公自身も、この開発地の空き家の一つに住むようになっている。  主人公は、もともと、東北の人ではない。大地震の時、大阪に住んでいて、予定にしたがってその地震の翌日には、岡山に引っ越している。主人公は、そのことに、一種の後ろめたさを感じている。現実から逃避したような気持ちがしているのである。その気持ちを反転させ、彼は東北の大学に進み、そのまま現地で就職したのである。  この小説の、中心は地震である。あの地震の影響を引きずりながら人は生きている。それをどのように生き延びていくのか。だが、災害そのものが、中心なのではない。人間が生きていくというそのことが、さまざまな苦しみを抱えて、日々を暮らしていくということにほかならない。主人公は、この観音が傾いたままでも、このまま立ち続けていることを望むようになる。それは、人が、さまざまな苦しみを経験しながら、この世を生きていく姿を象徴している(といえるだろう)。  ただし、この小説は人生論めいたものではない。気弱な若者の気持ち...