『大観音の傾き』を読んだ

 『大観音の傾き』は、山野辺太郎という作家の小説である。2024年12月、中央公論新社の発行である。この作家のことは、『いつか深い穴に堕ちるまで』という作品が出版された時に、ちょっと気になっていたのだが、読まないままになっていた。今回、新しい本が紹介されていたので、読んでみた。


 この小説の主人公は、修司という若者である。東北の県(宮城だと思う)のどこかの市役所の職員である。職場は海岸の出張所である。出張所のそばに、巨大な観音が立っている。バブルの時代に、地元の金持ちが建立したものである。バブルの崩壊とともに、関連施設はほぼ壊滅し、今は観音だけが海を見つめてたっているのである。

 地元では、この観音が、東日本大地震の影響で、少し傾いているのではないかという風評が立っている。主人公の仕事は、その声に対応することである。観音は本当に傾いているのか。それを確認するには、観音に関する書類が必要である。しかし、バブルが崩壊したため、関連する企業も消滅しており、その図面が見つからないのである。主人公は、わずかな手がかりを求め、関係者の元を訪ねる。その結果、こちらもバブルが崩壊して誰も住んでいない開発地に一人で住む老人を訪れることになる。この見捨てられた開発地が、一種の桃源郷のように描かれている。小説の終盤では、主人公自身も、この開発地の空き家の一つに住むようになっている。

 主人公は、もともと、東北の人ではない。大地震の時、大阪に住んでいて、予定にしたがってその地震の翌日には、岡山に引っ越している。主人公は、そのことに、一種の後ろめたさを感じている。現実から逃避したような気持ちがしているのである。その気持ちを反転させ、彼は東北の大学に進み、そのまま現地で就職したのである。

 この小説の、中心は地震である。あの地震の影響を引きずりながら人は生きている。それをどのように生き延びていくのか。だが、災害そのものが、中心なのではない。人間が生きていくというそのことが、さまざまな苦しみを抱えて、日々を暮らしていくということにほかならない。主人公は、この観音が傾いたままでも、このまま立ち続けていることを望むようになる。それは、人が、さまざまな苦しみを経験しながら、この世を生きていく姿を象徴している(といえるだろう)。

 ただし、この小説は人生論めいたものではない。気弱な若者の気持ちの揺れ、全体に牧歌的な背景、ちょっと変わっているが憎めに人々。そして、主人公の夢の中に登場して、みずからの悩ましい思いを東北弁で語る大観音。(もちろん、この夢は主人公の想いなのだが。)全体に暖かく、ゆるやかな気分が流れている。深刻な震災の物語ではない。

 何ヶ所かでちょっと泣かされてしまうことも事実である。それは、いわゆる感動ポルノのような表現ではない。


2025/07/06


コメント

このブログの人気の投稿

『三国志を歩く、中国を知る』を読んだ。

『幽霊の脳科学』を読んだ。