経験と表現
吉田修一の原作を映画化した『国宝』の評判がひじょうに高い。『国宝』は歌舞伎を題材にした作品である。ところが、タレントの伊集院光がこれにちょっと異論を唱えている。伊集院も、この映画がよい映画であることは認めている。しかし、世間がこれを大傑作のように褒めそやすことに違和感を覚えているのである。そこまで、すごい映画なのか?、というわけである。
伊集院は、元落語家であり、勉強家でもある。歌舞伎についても、たくさん観劇しており、それなりの知識も持っている。それだけに、かえってこの映画に描かれた歌舞伎にひっかかるものを感じているのである。
自分がよく知っている物事が、映画で扱われているのを見ると、どこか奇妙に感じることがある。映画に限らず、小説でも同じことがいえる。
わたしは、若い頃、国語辞典の原稿の作成、校訂のアルバイトにながく携わってきた。編集者ではないが、辞書の編集部の雰囲気はよく知っている。三浦しをんの小説『舟を編む』は、国語辞典の出版の過程を描いた作品である。映画化もされた。わたしは、原作も読んだし、映画も見た。どちらも評判のよい作品である。わたしも、よくできているとは思った。しかし、辞書作成の全体のプロセスは、少し、違っている部分があると感じた。それは当然である。わたしの体験した辞書の出版過程には、その辞書に固有の事情があった。小説は、いろいろの辞書の作成過程を取材して、そこから再構成されたものである。違って当然なのである。しかし、その過程のバランスが少し座りが悪いように感じた。
実際の状況をよく知っている物事を、作品化されると、多少の違和感を覚えるものではないだろうか。警察関係者が犯罪小説を読めば、非現実的に感じることも多いだろう。
ただし、例外もある。わたしは大学の教師として長年生活してきた。
奥泉光の小説、いわゆるクワコーシリーズ、桑潟幸一准教授が主人公の推理小説に描かれる大学には、多少の誇張、戯画化が施されているが、いかにも大学らしい雰囲気が漂っている。奥泉光自身が大学の教員ということもあるが、それだけではこうはいかない。奥泉の表現の巧みさの結果であろう。
もう一つは、北村薫の「円紫と私」シリーズである。これに登場する大学の描写も違和感がない。わたしは、はじめて読んだ時には、北村という人は大学の教員なのだろうと思った程である。もっとも、北村の描く大学、学生は、多くの大学の現実と比較して、できがよすぎるきらいはあるが。
2025/07/20
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