藤井省三『魯迅』を読んだ。
最近、魯迅の短編「鴨の喜劇」を読んだ。 魯迅といえば、『阿Q正伝』などの代表的な作品は読んだことがあるが、魯迅その人についてほとんど知らない。そこで、藤井省三の『魯迅』(岩波新書、1911)を読んでみた。 戦後、日本で魯迅といえば、竹内好の仕事にしたがって理解する傾向が強かった。藤井は、この竹内魯迅の否定、ないし修正を意図している。 竹内の魯迅理解の背景に、当時の日本の知識人の傾向が存在している。戦後、日本の知識人は、基本的に中華人民共和国に共感をいだいていたと思う。 しかし、中国が発展するにつれて、中国への好意はじょじょに後退した。現在の中国の状況は、どうにも好意を寄せにくい(少なくともわたしには)。そうした状況では、竹内のような魯迅理解が、やや受け入れにくいものになっているのも当然である。そうした状況においては、藤井のような批判が出てくるのも当然である。 藤井は竹内の魯迅理解だけではなく、翻訳も批判している。しかし、竹内が魯迅を日本化して翻訳しているというのは、わたしは全面的には同意しにくい。藤井は竹内が、魯迅の長い一文をいくつかの文章に区切って訳していることを、害悪のように指摘している。しかし、こうした翻訳の方法は、魯迅に限ったものではない。中国語に限った現象でもない。外国語の翻訳でひろく使われているものである。藤井の言い分には、それなりに根拠はあるのだが、全面的には認めにくい。 藤井の本は、魯迅その人の文学や思想を理解にも触れてはいるのだが、重点はむしろ魯迅の受容におかれているように思われる。意外なことに、藤井は魯迅の現代的な意義について、あまり強く断言していない。この点について、わたしは以下のように推測している。藤井は、心のどこかで、中国が経済的、社会的に発展が現状においては、魯迅の問題意識が以前のように現実感を失っているという気持ちをいだいているのではないか。 藤井のこの本は1911年に出版されている。中国は発展の絶頂にあった。しかし、翌年には習近平が国家主席になる。やがて、中国の経済状況は急速に悪化し、社会的にも自由は大幅に抑圧されていく。そのような状況下では、魯迅の抱えていた問題はきわめて現在的なものになっている。をの作品は、現代的な意味をまったく失っていないことが明らかになっていきたのである。 藤井の魯迅理解、そしてその...