『孝経』を読む
書店に行ったら、書棚に岩波新書『孝経』という本が並んでいた。著者は橋本秀美という人である。
わたしは、孝経にはあまり関心がない。そもそも儒教にそれほど興味があるわけでもない。それなのに、この本を手にとってみた。さしたる理由があるわけではない。帯に「小さな古典が映し出す儒教の大いなる流れ」とあるのに惹かれたのかもしれない。
孝経は短い文献である。約1800字である。その内容は、孝に集中している。孝は儒教の重要な概念であるが、そうはいっても、わたしには孝から眺めることで、儒教の面白さを知ることができるとは思えない。なんせ、孝は孝なのだから、親、年長者、上位者を大事にしろ、という考え方が中心である。わたしにはこの考え方がどうもついていけない。
わたしが儒学について、はじめて面白いと思えたのは、朱子の「大学」の注釈を朝日の文庫本で読んだ時である。この本は、朱子の注釈にしたがって大学(中庸もある)の本文を、読解したものである。著者は、島田虔次。この本を読んで、わたしには朱子という思想家の魅力を知った。概説書による朱子についての解説を読んでも、あんな思想がなぜ影響力を持ち得たのか、まったく理解できなかったが、この本を読んで朱子の思想、あるいは思考力が魅力に富んだものであることを知ることができたのである。
そういう儒学への態度からすれば、孝経はあまり面白くない。だが、この岩波新書の本は、なかなか面白いのである。この本の眼目は、孝経の思想そのものを説明することよりも、孝経の研究・受容の歴史にある。孝経の理解が、鄭玄(じょうげん)、孔安国、玄宗による三つの注釈によって、どのように変遷してきたかが記述される。また、注釈の歴史の背後にある、時代の態度、思想といったもおのが浮かび上がる。さらには、儒教における注釈というものの役割というものを知ることができる。多くの経典を読む時に必ずといっていいほどでくわす鄭玄の注釈がどういう特徴を持つのかも 知ることができた。
興味深いのは、中国では、新しい注釈が隆盛になると、以前の注釈は軽視されるようになり、消滅してしまうという記述であった。孔安国の注釈が広まると、先行した鄭玄の注は無視され、さらに玄宗による御注が広まると、孔安国のちゅうしゃ失われるのである。ところが、そうした古い注釈が日本に伝わると、いずれも保存され、江戸時代になると出版される。そうなって、今度は中国に逆輸入され、新しい刺激となる。日中の文化意識の相違を示す事例ではないだろうか。
この本眼目は、孝経そのものの解説ではなく、儒教史、研究史をとおして描かれた思想史なのである。わたしが、面白く読めた理由そこにあるだろう。
孝経そのものは、読み返してみても、わたしには相変わらず面白くない。
2025/05/04
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