学問の自由の危機

  独裁者は、自分の権力に疑問をいだいたりはしないだろう。しかし、他の独裁者をみて、独裁という権力のあり方についてはどう思うのだろうか。独裁というあり方が正しいと考えることは難しいはずである。他の独裁者を見れば、独裁は間違っていると思うはずである。

 しかし、考え直してみると、こういう理路そのものが、独裁とは異質のものなのである。独裁者は、自分がのみが正しいと考えており、独裁というあり方そのものを抽象化して評価し、それを自分の権力に当てはめて考えたりはしないのだろう。独裁者は、自己中心的な存在であり、他者と自己を同一に思考の対象としたりはしないのであろう。思考に客観性を求める考え方こそが、そもそも独裁とは異質の理路なのである。


 わたしが勤めていた大学が開校したのは、ほぼ40年前のことである。もはや新設校とはいえないが、伝統校というわけでもない。そういう大学のは、多くの場合、運営における経営者側の発言権は強い。わたしの勤務校でもそうではあったが、教育のあり方については教員の意見がかなり重視された。研究への介入はほぼなかった。とある教員の研究に対し、外部の団体から不当な批判が行われるという出来事があったが、その時も大学は研究者の立場を理解して、その教員を守る態度をとった。最近の私立大学はどこでもそうだろうが、研究ばかりしないで、教育を重視してほしい、という要望は行われた。しかし、常識的な範囲であれば学会への参加は奨励されたし、科研費を申込み、採用されることへの支援は積極的に行われていた。

 伝統校でなくても、それなりに研究、教育の自由は認められてきたのである。

 だが、日本は民主主義的な価値があまり重視されず、集団の利益によって判断が左右されがちであるといわれてきた。先進的な国家における学問、研究のあり方には及ばないと思われていたのである。戦後の教育の手本とされたのは、アメリカ合衆国であり、それと比較すると、多くの点で遅れていると思われてきた。

 ところが、先日、トランプ政権は、ハーバード大学への助成を打ち切るといいだした。それが実行されそうな気配である。こういう乱暴なことが可能だとは、まったく予想だにしなかった。大学の研究者、学生への政治的な恫喝、攻撃も激しいようである。アメリカでは、外国からの研究者、留学生が欠かせない仕組みになっている。その事実を無視して、大学の運営に介入するというのは、政治的な暴挙というだけではなく、現実的な合理性に欠けた方針でもある。これでは、アメリカの学問、研究の水準が低下するのは明白である。

 サッチャー政権下で大学への経済的な締め付けが行われた時、英国の研究者が大量に海外流出した。それにより、英国の大学の研究水準はかなり低下したしたといわれる。今回のトランプ政権の政策にようる影響は、その比ではない。

 トランプのインテリ嫌いは、インテリ否定に留まらず、あまり歌人の総愚民化を目指してしるように思える。それは、やがて、社会の生産性を低下させることになる。どうして、こんなに明白なことがわからないのだろうか。自分が先に愚民になっているからなのだろう。

 こんなことを書くと、アメリカ合衆国に入国できなくなるかもしれないが、さいわい、わたしにはアメリカに行く可能性はないので、知ったことではないのである。ただ、驚き、呆れているだけである。


追記

 ハーバード大学の所在する州の裁判所は、トランプ政権の方針に、違法であるとの判断のもとに、一旦ストップをかけているとのことである。


2025/05/25


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