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『幽霊の脳科学』を読んだ。

  『幽霊の脳科学』は、古谷(ふるや)博和という人の著書である。(ハヤカワ新書、2025年8月)。古谷博和さんは、1956年生まれの脳神経内科医で。高知大学医学部教授である。  この本は、脳神経内科の知見を背景にして、幽霊という現象を、怪異としてではなく、神経の引き起こす現象として理解しようとするものである。ナルコレプシー、パーキンソン病、一過性の健忘症など、さまざまな幻想を伴う症状を取り上げ、それがどのような幽霊の認識に関連している(と思われる)かを説明としている。この試みが、意外なほど、うまくいっている。おそらく、それは脳神経に関する医学の進歩も寄与しているのではあろうが、それ以上に著者の発想が柔軟で、また広い視野をもっていることによるものと思われる。この手の解説にありがちな、強引さや論理の飛躍はあまり、感じられない。うまく筆者の説明に誘導されてしまう。そこが楽しい。  筆者は、脳神経の医学を振り回すだけではない。幽霊が夏に出ることが多いことを説明した部分では、江戸時代の夏の生活の実態に思いをいたし、そこに睡眠の異常の生じやすい理由を求めている。このへんは、筆者の思考の柔軟さの賜物である。  もっとも、筆者は、幽霊などの現象のすべてが、脳神経の作用で説明できるといっているわけではない。脳神経に関する知見が、こうした現象を考えるために、新しい視点となりうることを主張しているのである。筆者は、幽霊がいないことを説明しようというわけではない。このへんの姿勢も、科学者としての節度をわきまえていて、安心できる。  ところで、この本のタイトルに「脳科学」とう言葉が使われている。しかし、この本の中には「脳科学」という言葉はほとんど(あるいは、まったく)使われず、脳神経内科という名称が使われている。これにも、この筆者の記述がきちんとしたものであることが示されているといえよう。脳科学という学問名称は、ややうさんくさく、脳科学者となれば、さらにうさんくさい。マスコミは、話しを面白くするために、こういう名称を使いたがるのだろうが、学問的にはあまり適切ではないように思われる。テレビで脳科学者という人が出てくるたびに、本当はなんの専門家だろうかと、気になってしまうのである。 2025/08/31

『三国志を歩く、中国を知る』を読んだ。

  正確には、「読んだ」ではなく、「読んでいる」段階である。この本、著者は坂本信博という人、出版したのは西日本新聞社である。(発行、2024年11月)西日本新聞は福岡の地方紙で、筆者はその記者である。わたしの持っているのは今年6月の第二刷となっているから、めでたく初刷りを完売して、増刷がかかったということになる。慶賀の至りである。  初刷り完売からもわかるとおり、この本、なかなか中身の充実した面白い本である。  三国志の登場人物、劉備、曹操、関羽にはじまり、さまざまな人物が取り上げられる。名場面の舞台も数多く登場する。各地で、登場人物がどのように扱われているかも、施設の紹介だけでなく、地域の人々の感情もよう調べられている。  こうした記述は、単なる三国志にかかわる知識を増やすだけのものではない。その紹介が、現代の中国の社会の状況、問題の解説にもなっている。このへんの匙加減が大変に上手である。それは、筆者の器用さの産物ではなく、一つには、三国志を長年、愛読してきた蓄積の賜物である。もう一つは、記者としてのしっかりした取材力の聖歌でもある。  最近のマスコミの中国報道には、中国の中央、地方の政府が発表した文章や、あちこちの新聞の記事を読んで、それを貼り合わせた、いわゆるコタツ記事が多い。そんな文章ばかり読まされているから、この本の文章が、大変に栄養価の高いものに感じられる。  じつのところ、わたしは三国志が得意ではない。なんども挫折している。そんなわたしでも、この本は興味深く読めるのである。  そうそう、この本、364ページもあるのだが、なんと1700円なのである。驚くべき低価格である。はじめ、図書館で借りて読み出したのだが、内容と値段にひかれて、自分で購入してしまった。それくらい、良い本なのである。 2025年8月10日

卒業と中退と除籍と

  伊東市の市長が、大学を卒業していないのに、卒業したと思わせるような言動をして、問題になっている。この市長の言い分がおかしいのは、実際は除籍なのに、本人が卒業していたと思い込んでいたと、説明していることである。  わたしは、長らく大学の教員をしていたが、こういう勘違いは、ちょっと考えられない。卒業はもちろんだが、中退と除籍も違う。  ちなみに、中退と除籍は似て非なるものである。中退は、学校を止めた日までの授業料を納めていなければならない。除籍になるのを避けるために、支払っていなかった分の授業料を納めて、中退になる学生もいる。中退は、一定の条件をみたせば(大学や学部で異なる)復学できる。また、履修単位を持って、他の学校へ編入できるケースもある。除籍はそれができない。中退はあくまで本人の都合であるが、除籍は大学の判断である。中退は在学中の履修単位が消滅しないが、除籍は学籍そのものが消滅するので、成績等もうしなわれる。除籍の中には、犯罪などによって、籍を抹消されるケースもある。このへんは、事務局が学生にきちんと説明するはずである。大学、学部、時代によって相違はあるだろうが、それでも、基本的な点はそう違わないはずである。  要するに、中退と除籍はかなり違う。この二つの違いがわからないということは、まず、あり得ない。この市長が在学したことのある大学はかなり規模が大きいが、それでも、このへんはきちんと説明されていたはずである。その説明もきちんとうけていなかったとしら、それはそれで、卒業と勘違いできるはずもない状況だったことになる。  大学の卒業時に、卒業単位で苦労する学生はめずらしくない。わたしも、卒業単位ではいささか苦労した。卒業式のない時代だったので、卒業証書を受け取らず、そのままにしていたら、大学事務室から、迷惑だから取りに来いと、電話がかかってきた。それをもらって、本当に卒業したのだと、一安心した記憶がある。年をとってから、外国の大学で授業をすることになり、そのために卒業証明書を提出しろと言われた。このときも、いささか不安になったが、無事、卒業していた。もっともその前に、新設校に修飾していたので、その時の審査で、わたしの学歴は、お国が保証してくれたのだが・・・。それでも、ある時期、大学を卒業していないという悪夢をときどき見る時期があった。  卒業が危なかった学...