老子を読む

  老子を読んでいて、気づいたこと。


 台湾の児童作家に岑澎惟という人がいる。十数年間、この人が書いた、聊斎志異のリライト本を読んだ。わりと楽しかったので、なんとなく好感を抱いていた。この人の本に、『大家讀老子』(みんなで読む老子)という本があることも知っていた。この人はオリジナルの児童小説も書いているのだが、古典を基にした児童用読み物も何冊か書いている。老子というのは、あまりよい子の読ませるような内容の本とは思えない。老子を子供向けに紹介するとしたらどういうものになるのか気になった。

 『大家讀老子』を開いてみてわかった。この本は老子という本の内容を解説したものではないのである。老子伝説や、後代の人が書いた老子の話しを紹介したものである。老子はこの世の虚しさを強調する。そんな思想をよい子に教え込むわけにはいかない。そこのところをややぼかして、老子に関するエピソード集に切り替えているのである。この本を読んでも、老子の思想はそれほど詳しくはわからないが、老子の伝説、受容史についての知識は得られるのである。


 講談社学芸文庫の金谷治の注釈本で老子を読み出したのだが、そこに以前読んだときの書込があることに気づいた。何カ所か、岩波文庫版を参照しろ、とある。amazonを見ると、岩波文庫版は数年前に購入したと、注記が出ている。ところが、この岩波文庫が書棚に見つからない。あちこち探していたが、とうとう面倒くさくなって、電子版を買ってしまった。これをkindleで読みだすと、文字が大きくて読みやすいのである。近年、紙版の字の小ささに悩まされている、どうも、これからは電子版を第一選択にするべきらしい。


 それにしても、老子という本は、テキストがあまり確定的ではない。多くの版で、文字の異同が多い。しかも、内容が深淵、記述が曖昧なので、文意を確定しにくい。悪く言えば、解釈に従って、原文を定めるという、逆転現象が起きている可能性がある。もちろん、古典の解釈ではこういう要素は免れられないのだが、その度合いがやや著しい。解釈者の判断、志向によって、理解の幅が大きくなる。


 以前、老子を読んだとき、支配者の視点から述べた文章があることが、いささか気になった。偉そうなことをいっても、所詮は、支配者の視点なのかと、落胆した。ところが、今回、読み直してみると、そういう点は、あまり気にならなくなった。そういう文章も、支配の方法を書いているわけではないと、感じるようになった。


 老子の注釈で、<ここは、瞑想の体験をのべたものだろう>といった内容に出くわすことがある。しかし、よくわかないイメージが語られると、それを瞑想の体験という便利な言葉で片付けているということはないだろうか。瞑想についてはっきりと書いた部分は、老子の文章には、ほぼないといっていいだろう。老子が瞑想したか、ということも明確ではない。<瞑想体験は、普通の経験とは違う。>→<はっきりしない内容は、瞑想中の体験だろう。>この程度の論拠しかないのではないか。


 それにしても、老子というのは、よくわからない本である。


2025/11/02

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