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仏祖三経の話し

  『四十二章経』という経典がある。仏教の基礎知識を説いたものである。さらに、同種のものに『遺教経』という経典があり、この二つを収録したものが、岩波文庫で出版されている。以前、喚んだ記憶があるのだが、今、引っ張り出してみると、古い岩波文庫なので、活字がきわめ小さい。今ではちょっと厳しいが、以前は読めたので、この二つの経典の内容は知っていた。  ところが、最近になって、仏祖三経というまとめ方があることを知った。仏祖三経は、先の二つの経典に、中国の禅僧潙山霊祐の語録『潙山警策』を併せたものを、こう呼ぶということである。潙山が加わるので、仏祖なのである。禅宗で、仏教の基礎知識を学ぶ教材として広く用いられたと紹介されている。  わたしは、仏教、とくに禅宗に関する知識はそれなりに持っているつもりだったが、仏祖三経というまとめ方があることは、知らなかった。日本ではそれほど広く読まれたとはいえないようである。こういうまとめ方をしたおは、『仏道入門』の古田紹欽によれば、宋の守遂(しゅすい)という禅僧だという。  仏祖三経の注釈書を探してみると、最近の本は存在しないようである。四十二章経、遺教経、潙山警策のそれぞれについては、まったく存在しないわけではないが、それもさして多い訳ではない。しかし、仏祖三経の解説書は見当たらないようである。これを見ても、仏祖三経がそれほど読まれてきたとはいえないようである。わたしが探して入手した本は『仏祖三経指南』という本である。この本、筆者は、為林道霈(どうはい)という人である。この人は、清の時代の禅僧である。この本が、仏祖三経の普及に貢献したらしい。  わたしの入手した本は、明治十九年に出雲寺文次郎という人が版元で、編輯が町元呑空という人である。この呑空という人が、道霈の本に、詳しい注釈を付している。町元呑空という人についても、わたしは無学でよく知らないのだが、この本以外にも注釈書を出版しているようである。  この本、詳しい注釈が付いているのはよいのだが、明治初期の出版の和紙、和綴じの本で、冠注の他に、本文に小さい文字で注が付されている。この小さい文字が、おおくの箇所で、かすれて判読できなくなっている。この本、日本の古本屋には、かなりの数、出品されているが、たくさん買って、よい状態のものを探すほどの気持ちはない。おおよその意味なら、手持ちの本...

藤田一照『現代坐禅講義』を読んだ。

  著者藤田一照は、曹洞宗の僧である。ただし、僧ではあるが、いわゆる住職、つまり葬式を手とする宗教業者というタイプではない。坐禅の修行者であり、指導者である。  この本、そのタイトルのとおり、現代において坐禅がいかなるものであるかを丁寧に説明したものである。その分量が尋常ではない、角川文庫版で五四四ページある。  著者は、坐禅を坐禅と習禅にわけて、特定の目標を設定する習禅に対して、坐禅そのものが目的であり修行であると理解する坐禅を選択する。これが基本的な主張である。その立場で、坐禅が心身においていかなる行為であるかを説明している。その記述は親切、詳細を究める。禅宗風にいえば、老婆親切そのものなのである。老婆親切の難しいところは、いきすぎると相手のためにならなくなるところである。  著者は、坐禅における行為と内面を理解し、深めるために、さまざまの身体技法を参照している。身体技法というのは、ヨガ、野口体操、呼吸法などさまざまである。東洋のものだけでなく、西洋のものも手広く研究している。この本には、そうした身体技法の指導者との対話も収録されている。さまざまの技法を参照して、そこから得られる知見を坐禅の理解の展開に生かそうというのである。  著者の姿勢は、わたしにも共感できる部分がある。現代において、只管打坐を実践しようとし、それに伴う内面的な風景をなんとか言葉にしようとすることを試みる気持ちも、わたしなりに理解できる。困難な作業であるが、著者はそれに正面からいどんでいる。  だが、わたしは著者に全面的に同意するのか、といえばそうではない。著者は、坐禅は身体技法を参考にはするが、それ自体は身体技法ではない、と何度も断っている。しかし、著者は、身体技法の知見が坐禅の実践に有意義だと、認めてはいるのである。問題はここである。身体の行為を精密に突き止めていくことは、はたして坐禅の本来のあり方なのだろうか。  著者のような探求を行ってきた坐禅実践者は今までも存在しなかったわけではあるまい。だが、著者のように身体技法としての坐禅の行為と内面をこれだけ詳しく記述した例はない。問題はそこである。それは、著者の知見が前例をみないものなのだろうか。そうではなくて、こういう姿勢が、今までの坐禅実践者にとって、自分達の坐禅の理解と異なるものだったからではないか。  著者の緻密な身体論その...

高野秀行『間違える力』を読んだ。

  高野秀行の本は、すべて、とまではいわないが、ほとんど読んできた。  『間違える力』は、2018年3月に角川新書で発行された本である。しかも、これは復刊である。原著はメディアファクトリーという出版社から、2010年3月に出版されている。  高野の本というと、普通の人の行かない場所へ行って、そこでの見聞を材料視にしたものが普通である。ところが、この本は、少し毛色が違う。この本は、高野がそうした自分の過去を振り返って、自分の生き方を考察するものである。いわば、メタな記述になっている。高野の本をある程度読んでいる人なら、ここで高野が回顧している出来事はだいたい読んで来ているに違いない。わたしも、ほとんどの事例は知っているものであった。  この本は、そうしたさまざまな経験を振り返って、その生き方を反省したものである。基本的には人生論といった性格のものである。それも、ハウツーものを目指している。しかし、高野自身が自覚しているように、高野の生き方は、若い人が模範にするべきものとは、ちょっといえない。だから、「間違える力」なのである。おそらく、この本は、はじめから、実用性など目指してはいないだろう。実用性のないハウツーものなのである。    高野は特定の生き方を提示しているわけではない。高野の生き方は普通の人のモデルになるようなものではない。その探検は、普通の人間なら躊躇するのが当然なものなのだ。その乱暴な計画、独自の関心が高野の魅力である。高野の魅力は、この独自性という言葉に集約されているだろう。  人は皆老いる、それにつれて、高野もこれまでのような行動は難しくなる。老人になった高野秀行はどのような境地を切り開くのか気に掛かる。 2026/01/18

マインドフルネスの気づき

  今日はもう一月九日、前回の書込から一月以上もたってしまった。前回は、インフルエンザにかかったことを報告したのだが、その後、お腹の調子が悪くなってしまった。おそらく、ウイルスに感染したのだと思う。物を食べると、常に違和感がある状態がふた月近く続いたことになる。胃腸の調子が戻ったのは、暮れが近づいてからだった。幸い、一月は、食事を楽しめるようになった。ありがたいことである。  胃腸の不調を抱えながら、『ヴィッパサーナ瞑想の教科書』、バンテ・ヘーネボラ・グラナタラ著を読んだ。この本の初版は1994年に出版されたとあるから、30年以上前である。ということは、この本は、この手の瞑想、マインドフルネスといわれる瞑想の初期の出版物ということになる。350ページもある本で、かなりの分量である。それだけに行き届いた内容になっている。ちなみに、著者は1947年に20歳だったと紹介されているから、現在99歳ということになる。著者紹介には没年がないから、存命なのかもしれない。  最近の多くのマインドフルネスの解説書は、さまざまのメソッドを紹介し、プログラム化された瞑想を紹介している。瞑想時間を短く設定しているものも多い。ところが、この本は、基本的には自分の意識を観察する、気づきの瞑想を単純に提案している。多くのマインドフルネスが自律訓練法のような意識操作に近づいているのに対し、この本は自分の意識を見つめる瞑想を提案してる。この方法は、あるタイプの禅の瞑想に近いといえる。瞑想がもたらす効果を排除しているわけではない。世俗生活にプラスの影響があるとは説明しているが、その程度の説明なら、禅の指導者でも強調している人は珍しくない。むしろ、世俗生活でのプラスの効果については、それほど強調されてはいない。  マインドフルネスの基本、中心的な考えがきちんと説明されている。ただし、わたしがこの瞑想をやろうということではない。 2026/01/11                 3イ