藤田一照『現代坐禅講義』を読んだ。
著者藤田一照は、曹洞宗の僧である。ただし、僧ではあるが、いわゆる住職、つまり葬式を手とする宗教業者というタイプではない。坐禅の修行者であり、指導者である。
この本、そのタイトルのとおり、現代において坐禅がいかなるものであるかを丁寧に説明したものである。その分量が尋常ではない、角川文庫版で五四四ページある。
著者は、坐禅を坐禅と習禅にわけて、特定の目標を設定する習禅に対して、坐禅そのものが目的であり修行であると理解する坐禅を選択する。これが基本的な主張である。その立場で、坐禅が心身においていかなる行為であるかを説明している。その記述は親切、詳細を究める。禅宗風にいえば、老婆親切そのものなのである。老婆親切の難しいところは、いきすぎると相手のためにならなくなるところである。
著者は、坐禅における行為と内面を理解し、深めるために、さまざまの身体技法を参照している。身体技法というのは、ヨガ、野口体操、呼吸法などさまざまである。東洋のものだけでなく、西洋のものも手広く研究している。この本には、そうした身体技法の指導者との対話も収録されている。さまざまの技法を参照して、そこから得られる知見を坐禅の理解の展開に生かそうというのである。
著者の姿勢は、わたしにも共感できる部分がある。現代において、只管打坐を実践しようとし、それに伴う内面的な風景をなんとか言葉にしようとすることを試みる気持ちも、わたしなりに理解できる。困難な作業であるが、著者はそれに正面からいどんでいる。
だが、わたしは著者に全面的に同意するのか、といえばそうではない。著者は、坐禅は身体技法を参考にはするが、それ自体は身体技法ではない、と何度も断っている。しかし、著者は、身体技法の知見が坐禅の実践に有意義だと、認めてはいるのである。問題はここである。身体の行為を精密に突き止めていくことは、はたして坐禅の本来のあり方なのだろうか。
著者のような探求を行ってきた坐禅実践者は今までも存在しなかったわけではあるまい。だが、著者のように身体技法としての坐禅の行為と内面をこれだけ詳しく記述した例はない。問題はそこである。それは、著者の知見が前例をみないものなのだろうか。そうではなくて、こういう姿勢が、今までの坐禅実践者にとって、自分達の坐禅の理解と異なるものだったからではないか。
著者の緻密な身体論そのものが、坐禅の本来とはやや異なることがあるのではないか。坐禅はこうして緻密な探求にとどまるものではなく、そういう説明とは水準の違うものではないか。坐禅は坐禅でって、実感的な説明を越えたものなのではないか。誤解を恐れずにいえば、坐禅はもう少し乱暴な物ではないか。(乱暴とは暴力的といういみではない。)坐禅とは、とにかく㘴ことだ、といういう言い方にとどめてきたのには、それなりの理由があるのではないか。「ダルマがわざわざ中国までやってきた意図とはなんですか?」という問いへの答えは、「庭前の柏樹子」。「仏の教えとは何ですか?」という問いへの答えは、「乾燥した棒状の糞だ」。こういう言い方は、比喩や表現技法ではなく、そのとおりの表現なのではないか。
坐禅には乱暴で、ユーモラスな部分がある。それは偶然的なことではないのではないか。
こういうことに思い至らせてくれたのも、藤田一照の老婆親切のおかげではある。
2026/01/25
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