流行り唄の無常感
流行歌の無常感
世界中で、さまざまな問題が起きて、呑気なことを書いている場合ではないのかもしれないが、まあ呑気なことを書くことくらいしかできないので・・・。
台湾で、日本の流行り唄がよく歌われるという事例は、かなり多い。その中には、元が日本の歌だったということなどもはやどうでもよくなるくらい、台湾の人の心に入り込んでしまったものもある。代表例は、吉幾三の「酒よ」という歌だろう。この歌は、「傷心酒店」という題名で親しまれ、台湾の人なら知らない人はいないだろう。日本における「酒よ」の位置とは、比べるべくもない。
これも、だいぶ古いが、沢田研二の唄に「時の過ぎゆくままに」という曲がある。しっとりとしたバラードである。この歌も、台湾で親しまれていて、今でも演奏されている。ロック歌手の伍佰がカバーしている。台湾での題名は「我愛儞一万年」である。歌の最後の歌詞もこの言葉になっている。日本の歌詞では、時の過ぎゆくままに愛し続けるというのだが、それを一万年愛し続けると訳したことになる。Youtubeで見ていると、最後のこの部分を、聴衆が楽しそうに声を上げて歌っている場面が映っている。日本の原曲は、当時の沢田研二の傾向にそって、ややデカダンスの気配の漂う調子になっている。伍佰の唄は、これとは対照的で、明るく元気いっぱいなのである。まあ、一万年も愛するというのだから、元気も必要だろう。
沢田研二の唄のデカダンスは、時の流れに流されながら、愛し続けるという、時間への態度と結びついている。よく使われる表現でいうなら、無常感である。愛を貫くということが、時間への感覚の違いで、まったく異なる表現になってしまうのである。
日本で暮らしていると、季節の移り変わりについての、こうした感覚は、当然のことと受け止めてしまう。しかし、台湾のように、四季がない地域の人は、どうもこのへんの感じ方が違うようなのである。(というか、日本的な四季のある地域の方が珍しいのだが。)秋に葉が色づいて、道に散る情景というのは、普遍的なものではない。(「四季の歌」という歌が中国で流行ったことがあるが、この歌は季節を歌ったも_のにしては、珍しく無常感が表にでておらず、他の地域の人にも抵抗がなかったのではないだろうか。)自然環境決定論が、決定的に正しいわけではないのだが、まったく自然環境の影響がないといこともいえない。
テレサ・テンという歌手がいた。この人は、台湾、香港、中国本土、日本の各地で大スターだったという得意な存在である。この人の歌に「時の流れに身をまかせ」という作品がある。まさに、無常感に裏打ちされた歌である。この人は日本で育ったわけではない。それにもかかわらず、この歌は日本で大ヒットしている。無常感に支えられた感情がきちんと表現されている。表現者の能力が、自然環境決定論を超克しているケースである。自然環境決定論が限界を持つことを証明しているともいえる。
(ところで、この人の名前、テンというのは、鄧小平の鄧である。これをピンインで表すとdeng4である。日本人の耳にはトンまたはドンに聞こえる音である。テンという読みは、ピンイン表記を、わざわざ誤読しなければ出てこないのではないか。おそらく、トンやドンでは、女性歌手の名前に相応しくないと考えて、無理やりテンという表記にしたのだろうか。この鄧という字、日本語では使わないし、中国語でも姓にしか使わないらしい。そこで、中国の人は、この字ですと説明するときにには、「又に朶を加える字」と説明するらしいが、この説明は簡体字(
邓)にも繁体字にも対応していない。不思議である。実際には、トウは鄧小平の鄧という説明しているに違いない。)
この文章、いつもにも増して乱暴な議論である。自覚はしています。
2025/04/06
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