『積ん読こそが・・・』を読んだ

  『積ん読こそが完全な読書術である』とい本を読んだ。著者は永田㠻という書評家である。以前から、不思議な題名の本があると思っていたのだが、文庫本になった。書店で見つけて、手に取ってみたら、ちょっと面白そうだったので、購入してみた。


 わたしは、長年、人文系の研究者をしていた。その専門の教師として、大学に勤めていた。こういう場合、大学内に研究室を与えられるのが普通である。あまり広い部屋ではないが、個室であり、両側の壁面に書棚を並べて本を入れる。わたしは、それほど書籍や資料を多く購入する方ではなかったが、それでも他の職業の人とは比較にならない。退職する際に問題になるのが、この研究室一杯の書籍である。はるか昔は、大学が書籍を図書館に寄贈せよ、と要求するものだったと聞く。しかし、わたしの時代になると、書籍だけは持って行ってくれ、という方向に変化した。図書館のスペースが貴重なのである。今では、多くの大学図書館が書籍の寄贈を断るようになっている。


 となると、この本をどうするかだが、研究者の自宅は、たいていすでに本であふれており、そこに研究室の本を持ち帰るなどといえばは、家族に猛反対される。結局、毎年退職する教員が、大量の書籍を廃棄することになる。わたしも、かなりの書籍を廃棄した。それでも、捨てられない分(つまり未練の残る本)は、書籍を預かる書庫業者に依頼することにした。

 その結果、わたしには、自宅の分に加え、書庫業者に預けた分の二重の積ん読が生じたのである。配偶者は、死ぬまでに本を処分しろという。たしかに、読めない本は処分するしかない。積ん読は、切実な問題なのである。


 この本の著者がたびたび参照している本が、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。この本は書店で見たことがあったが、本をまともに読む気のない人向けのハツツー本だと思っい、無視しいた。ところが、永田の本を読んで、この本が本格的な読書論だということをしった。バイヤールは、本を読むという行為が、そもそもどういうことかを考えているのである。本はほんとうに読めるのか。「完全な読書」というものは不可能ではないのか。となれば、逆に飛ばし読みや、本の情報を知ることも、読書の一つの形態なのではないか。

 この議論を受けて、永田は、積ん読は読書環境を作ることである。「情報の濁流

(永田のキーワードの一つである)

に押し流されている現代においては、自分なりの読書環境を作ることが重要であるという。この場合とは、生態環境のような意味での環境である。積極的な積ん読こそが読書の重要な要素である、と主張する。積ん読は、もはや後ろめたい行為ではなく、読書の前提となる重要な過程ということになる。


 永田は、その本の中で多くの読書論に触れており、その読書量は半端なものではない。書評家が多読でなければ務まらない職業である。だが、その読みの鋭さもなかなかのものである。今後の活躍に期待したいところである。ところが、文庫本の著者紹介を見ると、1973年に生まれて2024年12月に逝去したと書かれている。まだ、50歳前後である。現代では夭逝とすらいえる年齢である。本人、周囲の無念はいかほどだったろう。永田が、この本の後書きで「恋人」に謝辞を述べているのも、切ない。

 ところで、彼の蔵書は、その死後どうなったのだろうか。

2026/06/28


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