『新・坐禅のすすめ』を読んだ

  『坐禅のすすめ』は。臨済宗系の禅文化研究所が編纂した本で、1982

1982年に発行された。坐禅の入門書として、長く読まれてきた。2020年11月に、その新版として『新・坐禅のすすめ』が、出版された。雑誌「禅文化」に掲載された文章から、本書の趣旨にふさわしいものを編集、収録している。

 この中で、わたしにとっともっとも興味深かったのが、横田南嶺と佐々木奘堂の対談「坐禅で腰を立てるとは」であった。坐禅をするときには、腰を立てるとは、よく言われることである。前屈みになってしまうことを戒めているのである。一部の坐禅指導者は、腰を立てるということを、骨盤を前傾させ、下腹部を突き出す姿勢だと理解し、それを強調した座り方を修行者に勧めることがよくある。今でも、坐禅の入門書の中には、こうした姿勢を推奨しているものもある。だが、こういう姿勢が不自然で、心身に歪みを与える原因となるという指摘もなされるようになった。佐々木奘堂はこうした主張する禅匠の代表的な人物である。彼の坐禅観は、藤田一照の『現代「只管打坐」講義』という本に収録された対談でものべられている。佐々木の禅へのアプローチの一つの特徴は、体術として作法への関心である。佐々木はさまざまな身体技法を学び、それをとおして坐禅という行為のあり方を追求している。そして、本書の対談では、五体投地礼という礼拝の動作とそこに含まれる精神を坐禅の理解と自薦に生かそうとしている。これは、佐々木の発言が、身体技法を中心としていたのに比して、精神的な意味をも含んで論じている点に大きな変化がある。身体技法を単なる技法ではなく、仏教の信仰の根本との関連で捉えている。


 ただし、佐々木の議論で、やや不明瞭なままに置かれているのは、臨済系の禅で重視されてきた公案の解説である。旧版の『坐禅のすすめ』には、「公案と坐禅」という平田精耕の文章が納めれているが、新版には公案に関する文章はない。あさらにいえば、臨済禅で考える悟りとはなにか、悟るとはどういうことか、といった、根本的な問題に対する言及が少ないということである。佐々木ほどの探求者がこの問題に関心がないはずはない。対談ではこの問題が正面から取り上げられていないだけなのかもしれない。しかし、それでも、この問題への言及を保留して、禅について語ろうとしていることは、否定できない。行為としての禅を中心にすると、曹洞系の只管打坐の禅との相違が希薄になるのではないか。

 真向法から、マインドフルネスの瞑想まで、幅広くさまざまなアプローチを肯定してしまう姿勢には、禅を前向きに捉えようとする、現代の禅研究者(変な表現だが)の解明性を感じる。しかし、そこに、一抹の違和感を覚えるのも事実なのである。


2026/08/30


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