安楽の法門

  『新・坐禅のすすめ』を読んだので、古い方の『坐禅のすすめ』も読んでみた。どちらも、冒頭に「坐禅儀」の解説が収められている。旧版の担当者は、山田無文である。昭和の禅宗の代表的な人物である。これを読むと、最近の禅に関する文章では、ちょっとお目にかからない内容にでくわした。

 坐禅のをすると禅定が得られ、それにより、さらに定力が得られるとある。問題は、この定力の理解である。定力が発揮された事例として、ある禅僧が遠方の火事を察知して、そこに雨を降らせて鎮火させたという出来事が紹介されている。もう一つは、腫れものの出来た僧が、坐ったまま、麻酔なしに手術を受けたというケースが語られている。これを読むと、定力とは一種の超能力のように受け止められていることがわかる。昨今では、こうした超能力を坐禅に求めることはまずないのではないか。そういう要望は、ヨガや密教系新宗教の方へ向かうだろう。昭和では、こういう禅の理解が通用していたことに気づかされた。『新・坐禅のすすめ』には、もちろん、こういう要素はまったくない。


 とろで、「坐禅儀」の解説を読んでいて、もう一つ気になったことがある。「坐禅儀」の中央あたりに「坐禅はいまし(すなわち)安楽の法門なり」という言葉が出てくる。この言葉、よく考えると、二つの理解が可能である。一つは、坐禅が修行として安楽なものである、という理解である。苦行ではないということである。この意味にとれば、苦痛に耐えて行うようなものではない、ということになる。もう一つは、坐禅をすると、心身が安楽になる、ないし、安楽を得ることができる、という理解である。この場合、安楽は、目的ないし結果ということになる。安楽には二つの理解が可能なのである。もちろん、その両方だという理解も出来るが、それにしても二つの場面があることには変わりがない。山田無文は、安楽の修行といっているから、まず、前者を考えていると解することができる。『新・坐禅のすすめ』の政道徳門という人は、慧定が安楽をもたらすと書いているから、後者であろう。つまりこの二つのケースを組合わせると、以下のような可能性がでてくる。すなわち、一、修行としての坐禅は安楽であるが、坐禅によって得られる境地は安楽とは別物である。二、修行は安楽ではないが、それによって得られる境地は安楽である。三、修行も安楽で、得られる境地も安楽である。これは、かなり大きな差だと思われる。 三番目の解釈が一番、自然であるようにおもうが、それが坐禅ということの一般的なイメージにぴったりかというと、そうともいえない。


 ちなみに、道元は、二つの坐禅儀を残している。一つは、正法眼蔵に含まれる「坐禅儀:であり、今一つは若い頃書かれ、永平広録に修められる「普勧坐禅儀」である。後者には、「安楽の法門」という語句が見えるのだが、前者ではそれが省かれている。道元は、安楽ではない、と考えを変えたのだろうか。安楽ではないとは、明記していないので、そこは断定できない。


2026/09/06


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