イス坐禅
坐禅のやり方を書いた文章で、もっとも広く参照されるのは、坐禅儀だろう。禅宗四部録に収録されている。これによれば、両足を組む結跏趺坐と片足だけを組む半跏趺坐が認められている。結跏趺坐は、まず右足を先に組み、その腿の上に左足を組む。半跏趺坐は、右足はあぐらのような位置のままで、その腿の上に左足をのせる。いずれも、左足が上になる。道元の坐禅儀、普勧坐禅儀、どちらもこの点には相違がない。
しかし、かなり以前からイスで坐禅をすることは行われてきた。趺坐ができない人、坐るのに適した場所がない場合など、イスを使って坐禅をすることは、便法として広く行われてきた。しかし、そこには、本来は趺坐して坐禅すべきであるという意識が存在したように思う。
先日、横田南嶺という人の書いた、『イズ坐禅』という本を読む機会があった。この人、臨済宗円覚寺派管長、円覚寺僧堂師家、花園大学総長である。つまり、臨済宗で坐禅について語るとしたら、最適の人物である。この本を読むと、イスで坐禅をすることが、やむを得ない場合の便法ではなく、正当なやり方であると説明されている。横田さんは、ご自分は子供の時から坐禅をしているので、結跏趺坐には慣れ親しんできたと書かれている。その人でさえ、結跏趺坐は、からだに負担になると感じているらしい。イス坐禅は安楽の法門にふさわしい形態だというのだろう。イス坐禅は、世俗の人が坐禅に親しみやすくするだけのものではないのである。
YouTubeを見ていたら、若手の禅僧たちが作成している坐禅についてのチャンネルに出会った。このグループは、皆、意識の高そうな若い修行僧といった感じの人の集まりである。ところが、その動画の中で、ほとんどの人が結跏趺坐をできない、ないししていないという発言があった。また、足を左右、組み替えることがよくあるといっている。坐禅儀には、そんなことは書いていない。どうも、実際の修行者は、右でも左でも、認められており、また、時間が経つと、そっと左右を入れ替えることも認められているようなのである。
曹洞宗の禅僧である藤田一照さんは、坐法の目的は、体幹で身体を支えることで、趺坐に拘る必要はないと説明している。ご本人は、右足を乗せる形の半跏趺坐で坐禅されているようである。
こういう説明は、坐禅儀の文言をそのままに受け入れるのではなく、その趣旨を汲んで、それを現代に適応させている。坐禅儀の文言を教条主義的に受け止めるのではなく、その精神を現代に即して生かしているということになる。原理主義の立場からいえば、仏祖の言葉を違えていることになる。文言をそのままに受け取らず、自分の考えに従って解釈するというのは、恣意に陥る可能性がある。仏祖の真意を、自分の考えで解釈し、それが正しいのだと考えてしまえば、自分の判断が仏祖の言葉より正しいということになってしまう。坐禅について、このへんを詳しく論じた文章を読んだことはない。
追記、
鎌倉時代の禅僧、大燈国師宗峰妙超は、脚に病があり、結跏趺坐ができなかったという。遷化するに及んで、最後は結果趺坐をしたいと考え、脚を折って結跏趺坐したという。これを知ると、大燈国師が結跏趺坐を修行に欠かせない物とは考えていなかったことを知ることができる。大燈に向かって、おまえは修正主義だと、投げつけるのは、かなり勇気のいることである。
2026/09/13
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