点心
道元の『正法眼蔵』「心不可得」は、得山宣鑑のエピソードを扱ったものである。徳山は8世紀末から9世紀の人禅僧である。この「心不可得」の巻で、道元は徳山の行為を徹底的に批判している。
そのエピソードとは以下のようなものである。徳山は、はじめ金剛経を学ぶ僧であった。多くの金剛経の注釈を持って、龍潭という禅僧に会いに行くとちゅう、とある茶店に寄る。この茶店では一人のお婆さんが餅を売っていた。そこで徳山が餅を頼もうとすると、その婆さんが言った。金剛経には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるというが、あなたはどの心を点じようというのか?答えたたら、餅を売ってあげる。」これで徳山は答えに詰まってしまう。龍潭に出会う前の徳山の仏教理解の不十分さ、つまり学問的な知識を重視する修行の不十分さを指摘するはなしである。
この話しを成り立たせているのが、餅などの軽食や、お菓子が「点心」と呼ばれることである。さらに、「点」という碁が、注文するという意味の日常語であることである。現代でも、お店で注文するという時は、普通に「点dian3」と使う。婆さんは、そこから、心を注文するなら、どの心を注文するのか、という気の利いた質問を引き出しているのである。禅の問答が、口語で成り立っていることを示す例である。
ところで、この話し、普通は、は学問的な仏教理解の不十分さを示し、その後の徳山の禅による開悟へと連なっていく。ところが、道元はそれでは徳山を許さない。婆さんに問われて、答えを出せなかったことを厳しく批判する。さらには、徳山が答えられなかったのだから、ばあさんが代わって一言いうべきだったというのである。道元が求めているのは、真理を言語化する営為こそが、仏道に求められるということである。ここには、道元らしい公案に対する態度が示されている。さらに、道元は、自分で婆さんと徳山がどのような対話を続ければよかったのかを、提示してみせる。驚くべき老婆親切である。
道元は、公案が論理的に説明できると考えているわけではない。だが、真理は、言語化の営みの先に、あるいは言語化の営みの中に出現すると考えているのであろう。その視点から、徳山も不十分なら、ばあさんも不十分だと主張しているのである。この言語化へのこだわりが道元の基本的な姿勢である。それは、無門関のような非言語、没論理にすぐ飛び込んでしまう態度とは、まさに対称的なのである。
2026/09/20
コメント
コメントを投稿