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本日、休載。

 猛暑で、なにごとも、やる気がおきません。

『王育德の矜持』を読んだ。

  この本、正確なタイトルは長く『台湾からの亡命者王育德の矜持ーー一生を祖国の夜明けに捧ぐ」という。著者は近藤明理、王育德の次女である。ということは、台湾の言語の研究者、近藤綾さんのお母さんということになる。出版は2026年6月、草思社、3200円である。  王育得は、1924年、台湾台南市に生まれ、台湾一中、台北高校を経て、東京大学へ入学した。兄の、王育霖は、東京大学を卒業後、京都で検事を勤めていた。日本の敗戦で、育徳は大学を中退して、帰国した。兄も、その後、台湾へ帰国した。兄は、二・二八事件で殺害され、やがて育徳自身の身も危険になったので、香港に出国した。当時、育徳は結婚、長女が生まれたばかりであった。香港から、日本に密入国し、その後、苦労して日本で生活できるようになり、妻と娘を呼び寄せた。東大に再入学し、長く台湾語の研究を続けた。  台湾語の研究は、台湾では国民党の方針により、実行が難しかった。したがって、日本で行われた育徳の研究は、台湾語研究においてきわめて大きな意味を持つ。その後、彼は、台湾独立運動の中心人物として、この運動を支え、発展させた。その後の台湾の発展に寄与した重要な仕事である。また、台湾人で日本兵となった人の戦後補償の実現に努力した。この二つは、彼が存命中には結果をみなかった。しかし、その死後、見事な成果を結んだ。もう少し長生きできれば、嬉しい事態を見ることができたはずである。しかし、彼は1985年、61歳で心臓病で急逝している。本書のサブタイトルにある、「一生を捧ぐ」という言葉は、大げさでも何でもなく、まったくの表現どおりの事実である。  彼にとって、せめてもの慰めは、娘が彼のことをよくし、尊敬していたこと。さらに、その娘の娘、つまり孫の綾さんが台湾の言語研究と教育の道に進んだことだと思う。もちろん、近年、故郷の台南に記念館が作られ、その一生の仕事が顕彰されることになったのは、望外の喜びだったろう。  この本は、育德の日記や家族の記憶に基づいて、正確に書かれており、育德の業績、人柄などを十分に伝えている。近藤明理さんは、プロの文筆家ではないので、似たような文章が重複している部分や、記述でもう少し整理できそうな部分もある。しかし、こういう本に、それらの点であまり多くを求めることには、さして意味はないと思う。この本は、その意図の観点からす...

台湾語の音声入力

   中国語を勉強し、現地へ行って、その成果を試そうとすると、大抵の人の大きな失望にであう。正式に発音を習った人は別にして、自分で学習したような人が、現地で中国語を話しても、ほとんど通じない。それは、驚くほどで、わたしも自分で体験したことである。少しは通じるだろうと思ったが、一ことも通じなかったのである。  その後、台湾に一年行くことになり、中国人の先生に発音を主に勉強し直した。先生にしょっちゅう、例文や単語を発音しては、「これで通じますか?」と質問したものである。先生は、ちょっと不安そうな顔をして、「まあ、大丈夫じゃないですか」と答えてくれた。その成果は、台湾へいって、すぐに現れた。タクシーの運転手に「台北駅へ行ってくれ」というと、無事に通じたのである。  このように、中国語の発音は難しいのだた、現在では、じつに便利なツールがある。それが、音声入力である。中国語の入力をできるようにして、マイクのマークをタップすると、中国語の音声入力が可能になる。この場合、発音が正しくないと、アプリは遠慮なく、意図せざる候補を提示してくる。わたしの中国語では、しょっちゅう、こういう事態が起こるが、それでも、頑張って練習すれば、まあなんとか正しく変換される。人間と違って、アプリはいくら間違っても怒ったりしないので、自分が根負けさえしなければ、練習を続けることができる。  このように便利な音声入力だが、台湾語にはこの機能をもったアプリがなかった。そもそも、台湾語には、無料の翻訳アプリは存在しない。グーグル翻訳にも、台湾語はない。ところが、今年になって、台湾語の音声入力を可能にするアプリが登場したのである。  「臺灣台語輸入法」という漢字表記不統一な名称のアプリである。このアプリ、開発、提供が台湾政府の教育部、つまり、文科省に当たる役所である。教育部は、台湾語のオンライン辞書も提供しており、大体の辞書アプリもこの辞書のデータを利用している。台湾語教育に熱心なのである。「輸入法」というのは、日本語の入力法、ということで、そもそもは台湾語の入力アプリなのである。ただし、台湾語の入力アプリ自体はすでにあり、このアプリが特に衝撃的ということはない。ところが、今度のアプリは、音声入力が可能なのである。これは、かなり衝撃的である。わたしは、その存在を最近しったのだが、すでにかなり話題になって...

『阮籍の「詠懐詩」につてい』を読んだ。

  先週、長年の積ん読本の中から、たまたま『阮籍の「詠懐詩」につてい』吉川幸次郎(岩波文庫)を手に取って、開いてみた。1981年に第一版が発行されており、わたしが持っているのはその版である。今、amazonで調べたところ、在庫切れらしい。  阮籍といっても、すぐに誰だかわからない人が多いのではないだろうか。竹林の七賢人を代表する人物といえば、多少はイメージがわくかもしれない。わたしの知識もその程度である。この人の詠懐詩は、文選に収録されている。文選は日本で古代から親しまれていた文献で、枕草子で清少納言が褒めているくらいである。したがって、詠懐詩は日本文化にも大きな影響を与えたのだと思われる。阮籍は、この世のはかなさを強調する。仏教的ではないのだが、一種の無常観にのっとった作品が多い。平安時代以降、日本文化の重要な要素となる無常観の先駆をなす表現といってよい。日本の遁世の思想は、阮籍の影響を受けていると考えられる。  ところで、吉川の文章(論文といってもよいだろう)は、1955年と1956年の二年にわたって「中国文学報」という雑誌に掲載されたものである。この雑誌は、研究者を主たる対象とした専門的な雑誌である。したがって、この文章は、阮籍の詩に注釈を加え、観賞を手助けするというものではない。その目的は、阮籍という文人思想家の思想の特質を明らかにすることである。わたしのような素人が必要とする、細かい語釈は省かれている。そこは、自分で勉強しなさいというわけであろうか。しかし、吉川の文章だけでも、分からない部分はあちこち残るが、阮籍の作品の魅力はなんとなく伝わってくる。  この文章で気になるのは、吉川が阮籍を自立した合理主義者として描き、その点を強調していることである。吉川は阮籍を近代的な知識人として評価しているように見える。その人間像は、丸山真男が打ち出した近代人のイメージ、すなわち合理的に思考し、自己に責任を持つ知識人そのものであろう。阮籍は中国三世紀の人間である。二十世紀の知識人とは同じような視点で評価することには無理がある。たとえば、その強烈な無常観は、近代の個人主義とは相容れない。  岩波文庫本の解説は、荒井健という人が書いている。吉川幸次郎の弟子で、後に京都大学の教授になっている。その弟子からしても、吉川の記述についてやや違和感を覚えたのであろう、「清潔な...

『積ん読こそが・・・』を読んだ

  『積ん読こそが完全な読書術である』とい本を読んだ。著者は永田㠻という書評家である。以前から、不思議な題名の本があると思っていたのだが、文庫本になった。書店で見つけて、手に取ってみたら、ちょっと面白そうだったので、購入してみた。  わたしは、長年、人文系の研究者をしていた。その専門の教師として、大学に勤めていた。こういう場合、大学内に研究室を与えられるのが普通である。あまり広い部屋ではないが、個室であり、両側の壁面に書棚を並べて本を入れる。わたしは、それほど書籍や資料を多く購入する方ではなかったが、それでも他の職業の人とは比較にならない。退職する際に問題になるのが、この研究室一杯の書籍である。はるか昔は、大学が書籍を図書館に寄贈せよ、と要求するものだったと聞く。しかし、わたしの時代になると、書籍だけは持って行ってくれ、という方向に変化した。図書館のスペースが貴重なのである。今では、多くの大学図書館が書籍の寄贈を断るようになっている。  となると、この本をどうするかだが、研究者の自宅は、たいていすでに本であふれており、そこに研究室の本を持ち帰るなどといえばは、家族に猛反対される。結局、毎年退職する教員が、大量の書籍を廃棄することになる。わたしも、かなりの書籍を廃棄した。それでも、捨てられない分(つまり未練の残る本)は、書籍を預かる書庫業者に依頼することにした。  その結果、わたしには、自宅の分に加え、書庫業者に預けた分の二重の積ん読が生じたのである。配偶者は、死ぬまでに本を処分しろという。たしかに、読めない本は処分するしかない。積ん読は、切実な問題なのである。  この本の著者がたびたび参照している本が、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。この本は書店で見たことがあったが、本をまともに読む気のない人向けのハツツー本だと思っい、無視しいた。ところが、永田の本を読んで、この本が本格的な読書論だということをしった。バイヤールは、本を読むという行為が、そもそもどういうことかを考えているのである。本はほんとうに読めるのか。「完全な読書」というものは不可能ではないのか。となれば、逆に飛ばし読みや、本の情報を知ることも、読書の一つの形態なのではないか。  この議論を受けて、永田は、積ん読は読書環境を作ることである。「情報の濁流 (永田のキー...

休載です。

 梅雨で体調が悪いので、今週はお休みです。  2026/06/21

SNS選挙

  国民民主党という政党がある。しばらく前には、政界のキャスチングボートを握り、政界の行方を左右する情勢にあった。ところが、前回の選挙の結果、そのような状況に変化が生じると、急速に存在感を失ったかのように思える。支持の増減は、政党には付きものであるが、やや違う角度から捉えることができるのではないだろうか。  日本では新党はなかなかうまくいかなかった。新進党、日本新党なども、一定の役割を果たしたが、その後、消滅してしまった。しかし、これらの新党と昨今の新党とは、やや事情が異なるように思える。NHK党は一頃、いろいろ目立ったが、党首が犯罪者になった上に、党としての存在も縮小してしまった。日本保守党も、発展よりは内部分裂の方が目立つ気がする。支持の広がりも見られない。大きな存在になるかと思われた参政党であるが、今のところ発展の気配が止まっているように思える。もう少し古い、れいわ新撰組は党首の病気もあり、急速に勢いを失っている。前回の都知事選挙であたらしい政党誕生かと思われた、石丸伸二とその再生の道は、その後、まったく耳にしなくなってしまった。新党の賞味期限はどんどん短くなってきている。  しばらく前、兵庫県知事の斎藤元彦という人が、パワハラで失職した後、再選されるという出来事があった。その時、N党の立花党首が応援して、いわゆる二馬力の選挙をおこなって話題になった。斎藤元彦氏は、わたしには意外なことに、再選されたのである。この選挙結果は、ちょっと納得できなかった。ところが、最近、高市総理の周辺で、選挙の際に、SNSを利用した選挙活動が行われたという指摘が行われている。小泉で決まりと思われた総裁選をひっくりかえした一因はこのへんにあるのかもしれない。国民民主党が躍進した選挙でも、SNSが活動されたという指摘もでてきた。  限定された空間に、SNSによる情報の注入が大規模に行われると、空間の雰囲気が急変する可能性がある。一時的に一方通行の変化が生じるのである。最近の意外な選挙結果は、こういう戦術の変化があるのかもしれない。兵庫県の知事選はその端的な実例なのかもしれない。  政党は、運動方針と組織によって戦況を戦ってきた。しかし、その常識が変わっており、SNSによる土砂降り的な情報注入が大きな影響力をもつようになったのかもしれない。となれば、目先の話題だけに集注することで...

スマホ命

  ある会社から、自社製品のプレゼントのお知らせが来た。1000円くらいの商品だが、無料でもらえるのだから、申し込むしかない。  会員登録してから、申し込むという手順である。パンフレットには、PCでの申し込みとスマホでの申し込み手順が説明されている。こういう場合、わたしは、スマホの小さい画面で入力するのは面倒なので、だいたいPCで申し込むことにしている。  PCで手続きを進めているうち、あるところから前に進めなくなってしまった。会員登録は終わったらしいのだが、プレゼントの申し込みへ進めないのである。しばらく、悪戦苦闘してから、スマホの方で申し込みをすることにした。やってみると、会員登録は済んでいるというメッセージが出てきた。そこでプレゼントの申し込みに進む。じつに簡単に終わった。  パンフレットを見ると、スマホで申し込むと簡単です、といったことが書いてある。そこで、気づいたのである。会社は、この申し込みがスマホで行われることを標準としているのではないだろうか。思えば、PCは環境がさまざまなので、スマホの方が確実に処理できるのだろう。  従来はネットでの作業といえばPCが基本だったのに、いつのまにかスマホが標準になっているのである。そういえば、ネットバンキングも以前は、PCだったが、最近では、認証の方法からして、スマホが中心なのである。先日、ある銀行の口座のネットバンキングの手続きが変更になったので、その申し込みに行った。この処理を銀行側がやるものだと思っていたのだが、基本的には自分で自分のスマホを使って続きするのである。銀行の窓口へ行っても、銀行の行員はそのアプリの使い方をコーチしてくれるだけで、基本は自分で入力するのである。銀行が目指しているのは、行員がいなくても、ユーザーが自分で処理してしまうことである。最近、スマホの購入が、ネットで完結してしまい、実店舗が不要なのと同じである。  そういえば、最近の認証システムであるパスキーも、基本的にはスマホ利用である。いつの間にか、ITの標準はスマホになっているのである。スマホがないと生きていけないというのは、比喩ではなく、スマホが社会の基軸になっているのである。人々を社会と結びつけている紐帯は、今や親子でも家族でもなく、スマホなのである。スマホ命なのである。  スマホを落としただけなのに、という名前の小説があった...

異常気象の多発

  このところ、中国中部、南部はあいつぐ大雨のため、大規模の洪水が発生している。重慶では強風と大雨で台風のような天気になり、当然のように洪水に見舞われている。このニュースは、世界中でそれなりに報道されているが、中国国内では驚くほど報道が少ない。しかも、その多くは、習近平が対策を命じたとか、誰それが対策に出かけたといった、対応に関する報道が中心であり、肝腎の災害の状況についての報道は少ない。  YouTubeやニューズの動画では、山崩れや、街中をながされていく自動車が次々と映し出されている。あれほど被害が大きくては、経済への影響も大きいのではないだろうか。 水害が起きると、中国政府は100年に一度の自然災害と説明することが多いようだが、近年、こうした洪水は毎年繰り返されている。となれば、100年に一度どころの問題ではない。  ところが、この異常な気象は中国だけではない。ヨーロッパではこの時期としては異常な高温に見舞われている。ベトナムやインドも高温である。ラオスは大雨である。日本でも台風の直撃が予想されているし、静岡県の海外では水温の上昇に起因する赤潮が発生している。気温の異常は地球規模の出来事なのである。  ところが、地球の気温上昇に責任のある二国、つまり米中は、どちらも為政者が地球温暖化を軽視する方針をとっている。しかし、そうした主観的な判断には関係なく、結果としての災害が連発するようになってしまっている。為政者の成長優先の政策は、この災害によって悪影響を受けることになるから、この政策は自己矛盾である。  経済が発展期にある場合は、災害はかえって声調を促進する結果になることもある。しかし、停滞期にある場合には、災害はマイナスの影響しか与えない。中国にとって、今回の災害が社会の負担になるのに加え、今後も新たな不安を生むことになりかねないのである。中国の不況があまりひどくなると、他国へ与える影響も大きくなる。間違った政策は世界全体に影響する。大きな戦争の危険性も心配しないわけにはいかないのである。 2026/05/31

フェイク情報の自己増殖

  元卓球選手の石川佳純という人がいる。卓球選手として一流だったが、引退後、タレントとして活躍している。陳腐な表現を使えば、才色兼備、文武両道というタイプである。  最近、わたしのYouTubeのおすすめに、この石川佳純が唄を歌っている動画が出てきた。これが、異常にうまいのである。中国の流行歌らしい唄を中国語で歌っているのだが、完全にプロのような歌い方である。この人に限らず、卓球選手には中国語もうまい人が多い。卓球選手が歌がうまくても問題ないのだが、この動画の歌は、アマチュアの歌としては、多少不自然である。動画の説明はいずれも簡体字、つまり大陸流の漢字体である。ということは、これらの動画は中国大陸、ないしその系統の人が作成、投稿したものだろう。はたして、本物なのか。  この質問を、googleの検索に質問してみた。AI検索である。すると、石川佳純はラジオ番組で唄を歌っており、この動画も歌っているのも本人だろう、という回答であった。このラジオ放送も動画で投稿されている。これを見ると、確かに歌っているシーンはある。しかし、そこでの歌い方は、はいかにも素人の鼻歌という感じである。とても、玄人はだしの歌い手とは思えない。そもそも、歌っている動画も、本人が歌っている映像はなく、音声だけである。どうも、映像まで作る手間を省いたようである。  わたしの見るところ、この動画は他の人の歌唱、あるいはAIで作成した歌唱であろうと思われる。それをAI検索が本人だと判断したのは、ネット上の情報、それもフェイク情報も含んだもろもろの情報を集めて、それに基づいてのことであろう。つまり、フェイク情報の上にたって、判断を下しているのである。フェイク情報が次のフェイク情報を生み出しており、わたしがそれを信じて文章化すれば、そのフェイクがさらに再生産されることになる。わたしの文章が、情報となって、さらなるフェイクを生み出すことにもなろう。これでますます事実よりもフェイクの方が事実らしく見えることになる。  画像が、AIで作成したものかをAIでチェックする機能もあるらしいが、すべてそういうチェックで検証できるのだろうか。それが追いつかなければ、フェイクの自己増殖は続くはずである。  こんな見え見えの動画でも、AIは間違った判断をしてしまう。政治や社会問題に関する情報では、こういう自己増殖は当たり...

7人制の競輪

  わたしは長い間、熱心な競馬ファンだった。しかし、15年ほど前、すっぱり止めてしまった。競馬は面白い遊びだが、思うところがあっったのである。今では、G1優勝馬の名前する分からなくなった。競馬を止めた頃、競輪を少しやってみた。しかし、競輪では推理を楽しむ時間が少ないし、そもそも推理する要素、情報が少ない。おまけに当たらないので、だんだん疎遠になってしまった。  最近YouTubeのおすすめ動画に競輪関連のものがよく出てくるようになった。あれは、一回見てしまうと、次々と紹介されるようになる。それを見ているうちに、なんとなく違和感を覚えた。なんとなく淡泊なのである。その原因を考えたら、選手が7人しかいないことに気づいた。以前の競輪は原則9人であった。それが7人なのである。以前も女子の競輪、ミットナイト開催の競輪は7人だったが、今は7人制が原則らしい。どうも、コロナの時密集を避けてこうなったらしいい。コロナが下火になっても、7人制がつついている。  9人制でレースを行うと、3人づつの3グループに分かれることが基本となる。競輪は個人競技だが、選手はレースごとにラインと呼ばれるグループを作り、協力して戦うのが原則なのだ。このライン戦という形態は昔はなかったらしいが、わたしが物心ついた頃にはすでにこうなっていた。これは、選手同士が協力するので、昔気質の人は「ずるい」「八百長だ」と感じるようだ。  こういう形態になるのは、競輪という競技の構造によるものである。競輪は、9人の選手が、バンクと呼ばれる競技場を4ないし5周回して勝負を決める競技である。こういう競技では、先頭を走る選手は風を受ける不利がある。そこで、先頭の選手、二番手の選手、三番手の選手がグループを形成し、先頭の選手が風よけとなり、三番手の選手は後ろから来る他のラインの選手をブロックする役割を担う。中心になるのは二番手の選手である。三つのラインが縦に並んでレースが進む。先頭を走るラインの先頭選手が、あまりに不利な立場になってしまうから、前半は自分は勝負に関係ない、誘導員という選手が先頭を走ることになっている。そして、残り二週になったとき、この誘導員は待避する。すると、先頭ラインの先行選手が風を受ける。たいがい、その瞬間を狙って後方のラインが上昇してくる。多くの場合、先行したラインは後方へ下がり、巻き返しを狙う。こ...

中国経済の現状

  5月8日の朝日新聞朝刊に、YouTube上でビジネスとして嫌中動画が垂れ流されているという記事があった。こういう動画は事実に基づくのではなく、嫌中意識を盛り上げたい人に喜ばれることを目的にしている。わたしは、中国関連の動画をよく見ているので、それに混じって、朝日が問題にしているようなお粗末な嫌中動画もおすすめに出てくる。中国人が海外で非常識な行動をとり、叱られるというものが多い。まあ、これには一部、事実も混じるので根も葉もないとはいえないのだが、やはり嫌中感情に乗っかったフェイクといえるだろう。  中国は、長年、日本より経済水準がはるかに低かった。それが、急激に上昇し、経済規模で日本を追い抜いた。その事実が、嫌中感情の背景にある。ここで重要なことは、こうした感情の水準を離れて、中国の現実を認識する必要がある。  しばらく前、中国の昨年のGDPの伸び率が5%だったと、報道された。これは、かねて中国政府が掲げていた予測値とぴったり一致している。だから、この数字には不信感がいだかれている。いくら中国でも、予測値ぴったりというのは能のない話しだから、たまたまこうなったのかもしれない。しかし、こうした中国政府の数字はそもそも信じられてはいない。中国の学者が2%程度だろうと発言して、弾圧されたという話がある。マイナスが実態だという人もある。  GDP以外の数字はどうだろう。中国の現在の消費者物価指数の変動は1.0程度、生産者物価指数の方は1.0へ上昇である。生産者物価指数はマイナスからプラスに転じたのだが、その主な原因はアメリカとイランの戦争による物価上昇ではないかという意見がある。とすると、この上昇は、悪いインフレの典型である。  いすれにしても、中国で物価が停滞していることは間違いない。これは、中国経済の現状が、数年来の停滞を脱していないことを物語っている。  この背景に、中国の経済的な体力の衰えの問題が存在する。中国の労働力人口(15歳から64歳)は、2013年にピークを迎え、10.1憶人であった。それが、2024年には9.7憶人まで減少した。2050年には、6億6600万人と予想されている。予想とはいっても、人口の問題なので、大きな狂いは生じようがない。中国経済を発展させた一因である人口ボーナスは消滅しているのである。  中国の経済は、輸出偏重であって、国内...

河鍋暁斎展を見てきた

  河鍋暁斎の展覧会が開催されているということで、六本木のサントリー美術館へでかけた。この展覧会は、海外のコレクターの収蔵品を陳列したものである。ちなみに、河鍋暁斎は、幕末から明治の前半まで活躍した日本画家である。  河鍋暁斎の作品には、けっこうあちこちで出くわす。そうした完勝をとおして、わたしの中には、曉斎という人のイメージが二つに分裂していた。その一つは、漫画的な雰囲気のある風刺画である。明治のさまざまな事件、風俗を対象としており、歴史の本でもよく引用されている。もう一つは、仏教画で、あちこちの寺院に曉斎の作品が収蔵されている。こちらは真摯な宗教画である。  わたしの中では、なんとなく二人の曉斎がいるような気分だった。それが今回の展覧会を見て、解決した。曉斎は、この二つの領域だけではなく、じつに多様な種類の作品を残しているのである。彼は、筆が速く、依頼があれば、気軽に多くの作品を残したと見える。したがって、先の二つは、曉斎における重要なジャンルではあるものの、その二つを飲み込んで、多様な作品を残している。その数も膨大である。海外のコレクターがかなりの数の作品を持ち出しても、国内にまだたくさんの作品が残っているのである。  曉斎は、絵のうまい画家だが、重厚な作品を残すタイプではない。どこか、マイナーポエットの雰囲気がある。それだけに、気楽に楽しめる画家である。また、絵を描くことの楽しさがよく表現されている。  ところで、わたしは、この人の名前を長い間、ギョウサイと発音してきた。ところが展覧会の看板を見ると、Kyosaiと書かれている。キョーサイと発音するらしい。展覧会の説明を読んでいたら、この人が若いときは狂斎という号を名乗っていたことをしった。その後、その表記を曉斎に変えたのである。したがって、発音はキョーサイなのである。  これには、驚いた。 2026/05/03

山火事と地球温暖化

  岩手県の大槌町で、大規模な森林火災が続いている。この地域は、東日本大震災で被災した地域である。そのため、海岸から、山側に移住した人が多い。そういう人々の家が、火災の危機に瀕しているのである。避難している人々が、避難になれているのも悲しい。  こういう災害の場合、実際に被害にあっている人から、SNSに書込がなされることは極めてまれである。被災者にはそんなヒマはないのである。これは、多くの災害でも起きた現象である。Xを開いても、大槌町の現状を知ることはできないのである。  この地域は地震と山火事であるが、最近、同一の地域が複数の災害に襲われるケースが目立つ。能登が地震と大雨、熊本が地震と大雨である。こうしたケースは今後も発生する可能性がある。地震は、地球温暖化には関係なかろうと思うが、大雨と山火事は地球温暖化の産物であろうと思われる。地球温暖化を否定する非科学的な人々がいるが、昨今の世界中のあちこち起きている現象を見れば、もはや否定の余地などないのではないか。  二重、三重の災害に襲われた方々の苦労はいかばかりのものかと思う。わたしは、それなりに長生きしたが、その間に一度も戦争と大災害に襲われた経験がない。このような人生は人類の歴史の中でもまれなものである。災害と戦闘を経験するのが、むしろ通例のことなのである。  報道される大槌町の状況を目にすると、心が痛む。ただし、視野を広げると、それどころではない状況に置かれている人々も存在する。パレスチナの住民は、激しい長年、激しい攻撃にさらされ、非人道的な状況で生きざるをえない。平和を維持することが、いかに重要なことなのか、思い知らされる。  それにしても、自分はひどく幸運な人間だということになる。この幸運が何に起因するのか、わかるはずもない。せめて、日々を謙虚に暮らすことしたい。 2026/04/26

見慣れぬ漢字

   中国語の教科書を読んでいたら、次のような例文にでくわした。  那个店拉面馋得每天不少人排长队.  この文の意味は、「あの店のラーメンは、毎日長い列ができるほどのおいしさです。」というものである。(『口を鍛える中国語作文・中級編』)麺、長と隊が簡体字になっている。そして、見慣れない文字が、「馋」という字である。この字、漢和辞典にでていない。画数が多いが簡体字なのである。この文字、繁体字であっても、小型の漢和辞典には出てこない。この字の繁体字は、「饞」とい字である。この旁は、讒言の「讒」という字と同じである。意味は、「食べたがる」とい意味らしい。形容詞である。この字が簡体字になったのは、この言葉が使用頻度が高いからだろう。収録語彙一万語レベルの入門用の中国語辞書にも収録されているのである。なるほど、教科書の例文に出てくるのも当然である。  この簡体字の旁の文字は、先週紹介した『識字快車』によると、食偏の他に、言偏と手偏の文字が出ている。言偏は讒言の「讒」である。手偏は割り込むという意味らしい。繁体字のままの字は、『識字快車』には収録されていない。『新華字典』にはわずかに金偏の文字だけが収録されている。この旁の文字には、他に山偏、口偏、糸偏などの文字があるらしい。しかし、これらの字は、小さい字書にはでていない。  それにしても、三つの字に簡体字を作る必要があったのだろうか。しかも、字体が奇妙である。まあ使うのは、「饞」と「讒」とい字だけだろう。この旁を伝統的な字にしておいてもさしたる負担はなかったのではないか。わざわざ、字体を変える方が、余計な負担だったのではないか。簡体字も、日本語の新字体も、変更したことによって余計に面倒になってしまったのではないだろうか。(もちろん、簡体字も新字体も便利なこともあるのだが。) 2026/04/19

薄っぺらい漢字たち

  中国語を習い始めた時、面食らったことの一つのことに、皿を意味する言葉が一つではないということがある。皿という字は、発音min3で、意味は一応皿なのだが、口語では単独では用いられない。現代の中国語で皿を意味する単語は、盤子pan2zi3、碟子die2zi3の二つである。このうち、前者は大きい皿、後者は小さい皿を意味するという。この二つの単語のうち、どちらが上位概念なのか、をれを知るために、手元の中国語の辞書「規範漢語詞典」を引いて見る。すると、前者が「食べ物を入れる底の浅い、円形ないし楕円形の器」となっているのに対し、後者は「食べ物を入れる小さい盤子」となっている。これを見ると、盤子の方が上位の語であると思う。ただし、盤子が皿一般を指すと簡単に言えないのは、やはりこの二つへ別の意味だという意識が強いからだと思われる。その原因は、中国人の食事における、大皿と小皿がかなり別の物という意識があるのだろうと思う。盤子が料理を入れて出すものなのに、碟子は料理を自分のために取り分けるものだからである。皿を指す言葉の違いの背景には、それを使用する現実の違いが存在している。  ところで、この盤子の盤という字であるが、現代中国語の簡体字では、上右側のル又の部分が省かれ、舟だけになっている。これは、漢字の成り立ちを無視した字形である。舟の発音はzhou1である。漢字の旁が、まったく機能していない。わたしには、簡体字のよくない例であると思われる。  普通、漢字の辞典は、偏(へん)別に文字を分類している。しかし、漢字を旁(つくり)でまとめた変わり者の辞書がある。わたしがもっているものは、『識字快車』(商務印書館国際有限公司)というものである。  これで、舟の部分をみると、「舟」と「盤」(のル又を省いた字)だけが載っている。これを見ても、旁が舟というのは、どうにも無理矢理であることが理解される。また、「般」を含む他の漢字は、「舟」に変更していないので、なぜ盤だけが変更されたのか、疑問である。  ところで、皿のもう一つの言葉「碟子」の「碟」の方にも問題がある。この字、「蝶」などの同族である。喋牒諜などがある。魚偏もある。これらはdieと発音する。この旁を含む字は、基本的には「薄い、ぺらぺら」という意味、イメージを原義としている。さて、この旁を使っている字で一番なじみのある字は、「葉」...

独裁の不合理

  人間の身体は、独立したパーツの寄せ集めではなく、全部がまとまりをもった一つの存在である。各パーツの交換がまったくできないわけではないが、見方によっては、全体が密接に関係している。つまり有機体である。  社会や国家は、厳密には有機体ではないが、全体が一つの実体的な存在であるので、有機体と見なされることがよくある。いわゆる、社会有機体説である。比喩の常として、これをあまり絶対視すると破綻が生じるが、多くの場面では有効である。  身体によくないこと、バランスを失したことを行っていると、やがては病気になる。炭水化物を取り過ぎれば、糖尿病。塩分を取り過ぎれば、腎臓病。喫煙をすれば肺や心臓の病気。などなど、枚挙にいとまがない。こうした病気は、一定のレベルになると、回復不可能な状態になるものも多い。回復可能な物でも、地道で長い努力が必要である。  同じようなことが社会、国家、政府にも該当する。  安倍晋三政権は、異次元の金融緩和なるものを実行したが、それは、極端な金あまりを生み、物価高騰とインフレに結びついた。これは、元気がないから、糖分を供給するようなもので、一定以上継続すると、糖尿病になるのと同じ理屈である。悪化すると、それを治療するのは大変で、かなりの努力を要求することになる。現在の高市政権は、その弊害があきらかなのにその政策をまだ採用している。  強い権力は、さまざま忖度をうみ、政策を変更することを困難にする。権力が属人化すると、政策変更は権力への反抗という色彩を帯びるため、それが一層困難になる。多くの独裁的な権力が、政策の是正に失敗するのは、権力者が愚かなのではなく、独裁という権力の構造から、当然なことでして生じる事態である。毛沢東が大躍進を打ち出して、大飢饉を引き起こしたことも、こうした事例の典型である。日本でも、第二次世界大戦をいつまでも引きずってしまったことがある。  アメリカのトランプ大統領が、相互関税の実施、イラン攻撃など、いくつもの不合理な政策で、アメリカ、世界に混乱を引き起こしている。トランプ大統領は、王様気取りで、基本的に独裁者志向である。したがって、その政策が不合理なのは偶然の結果ではなく、不合理な政策が実施されるのは必然なのである。しかも、それは是正されにくい。そして、結果的にアメリカの国家全体を正常ならざる事態に引きずり込む。そして、ア...

風土としての私鉄電車

  昨日、買い物に出かけたら、桜が満開だった。わたしの家の近所には、桜の並木があちこちにあり、花見をするのに苦労はない。  以前は、春に桜の花見をすることは、なんとなく世界中どこででも行われていることだと思っていた。しかし、台湾で春を過ごしたとき、そうではないことを知った。台湾の桜は小ぶりで、花も地味である。台湾でも花見をまったくしないわけではないが、日本とは規模が違う。台湾の人も、桜の本場は日本だとおもっているようなのである。  外国では、日本のように桜が咲く地域は意外に少ない。この条件が日本人の桜好きを成長させ、それが桜をさらに増やす結果になり、それがさらに桜好きに輪をかけることになったのだろう。  自然が文化を決定すると決めつけることはできないが、影響を与えていることは確かである。日本では、雨の登場する流行り唄がたくさんあるが、これもまた、日本の多雨が影響していると思われる。日本語には雨の表現が豊富であることも、知られた事実である。台湾も北部は多雨の地域である。基隆などは、あけてもくれても雨が降っていると言われている。雨の唄もとうぜんたくさんある。  西島三重子という歌手に「池上線」という唄がある。地味だが良い曲である。東京近郊の私鉄電車で通勤、通学した人なら、とくに身近に感じる内容である。この唄の男女の恋物語の背景として、独特の味わいを与えている。この私鉄電車という存在、池上線に限らず、井の頭線、東横線、田園都市線、目蒲線といった路線の持つ雰囲気を思い出してほしい。「池上線」に限らず、竹内まりあの「駅」なども、この雰囲気に支えられた唄ではないだろうか。(勝手な思い込みかもしれないが。)この東京近郊の私鉄というのは、これが意外なことに、世界中でこにでもある、というものではない。自動車でもなく、路面電車でもなく、ケーブルカーでもない電車文化は、かなり珍しいものなのである。これに対し、伊勢正三の「なごり雪」、中島みゆきの「ホームにて」に出てくる鉄道と状況は、かなり一般的なものであるように思われる。  社会的な特徴も、風土の一部として、その地域の感性に影響を与えていることがわかる。自然だけが風土ではないのである。 2026/03/29。

『千字文を読み解く』を読む(続き)

  『千字文を読み解く』を読んでいたら、鳳凰の説明が出ていた。鳳と凰には、違いがあり、前者が雄、後者が雌なのだと書いてある。漢和辞典を開くと、なんとこの説明が出てくる。知らないことばかりである。  ところで、この本、千字文の四字句の解説だけではなく、それぞれの漢字についての説明がついている。読んでいて気づいたのだが、漢字の成り立ちについて、著者の野村茂夫は、主として白川静の学説を利用している。白川の学説は、多くの支持者を得てはいるが、標準的な説明とはやや異なる。宗教やその儀礼との関わりを重視したものである。乱暴にいえば、漢字学の伝統よりは、自由な発想を駆使する傾向がある。それに対して、漢字学の伝統を踏まえて自説を作り上げたのが、藤堂明保である。彼の学説は学研の漢字源系統の漢和辞典の記述にいかされている。三省堂の漢字海や角川の新辞源などは、昔中国でできた説文解字の説明を基礎にして説明している。ということは、現在、漢字の成立については、主として三種類の説明が存在していることになる。もっともこの状況はだいぶ以前から変わっていないようだ。白川と藤堂の両先生の業績はそれだけ優れたものなのだろう。  あまり意識しないことだが、主要な研究者の存在が、学問の状況を左右する度合いは意外なほど大きい。それは、この二人の碩学に限ったことではない。 2026/03/22

『千字文を読み解く』を読む

  千字文は、主として、書道の手本として活用されてきた。そのためか、内容を理解することはあまり重視されてはこなかった。書道に携わる人は、漢語を書くことが多いが、そうじてその文学的、思想的内容には、あまり関心がないようである。千字文の内容についての関心の薄さは、日本だけではない。中国や台湾では、子供向きの古典が数多く出版されている。弟子規とか百家姓など、漢字の勉強用に使われる。千字文もその一つである。これらの本は、発音や簡単な解説はついているものの、内容を理解するKとには、情報が不足している。  日本であれ、中国語圏であれ、千字文の内容は、ほとんど無視されているのである。その結果、習字手本として千字文の出版物は多いが、文章としての千字文の解説書はほとんど出版されていない。  千字文の解説書として、一番手頃な物は、岩波文庫の『千字文』であろう。現行版は、小川環、木田章義が担当している。この本でさえ、あまり鮮明ではないが、智永の千字文の写真版が付されている。こうしないと、読者が納得しないと考えたのだろうか。  この本、千字文の普通の解説書ではない。6世紀の李躚暹(りせん)という学者の注の口語訳が中心をなしている。6世紀の学者の著書であるから、その記述は現代の日本人の知識とはかなり想定が異なる。その部分は、二人の著者が補充をしているのだが、注が二種類に分かれている。この本は、要するに、わたしのような読者には、かなり不親切な物になっている。学問的には、かなり高い水準を維持しているが、読み物としては不便なのである。かなりの大部であり、しかも文字も小さい。  苦労していたわたしは、amazonで調べてみた。すると、『千字文を読み解く』、野村茂夫。大修館、2005年、という本が出てきた。これを買うしかない。  で、読み始めたのである。これがわたしのレベルにはぴったりの本であった。この本を読むと、千字文には中国の歴史、思想、文学のさまざまの知識を踏まえて作成されていることがわかる。千字文の解説を通して、中国の古典に関する膨大な知識を学ぶことができるのである。この本は中国文化の小辞典といった性格を帯びている。そして、かなり読みやすい。  千字文の文章は、四字一句で、偶数句で韻を踏んでいる。千字文は、梁の周興嗣(5世紀から6世紀)という人物が、一夜で作ったものといわれる。作者はそ...